Our life but a span(人の一生は短い旅路にすぎない)
という言葉がある。これと古稀について同時に読んだので、
このあたりを書こうという気になった次第である。
70歳まで長生きするものは昔からきわめて稀である。これを
古稀と称する。確かに“国敗れて山河あり”の杜甫の時代は、
今から1200〜1300年も前のことなので、この時代の
平均寿命は現代のものに比べればはるかに低く、70歳まで
生きている人は少なかったに違いない。
一方、“人の一生は短い旅路にすぎない”も、来し方を振り
返れば途方もない距離を随分な時間を掛けて歩んで来ているし、
手を翳(かざ)して行く末を眺めて見ても、限られた時間と
景色は見えない。それでも短い旅路にすぎないと表されるの
である。地球の誕生規模で考えれば、昭和から平成にかけての
一生なんて一瞬の間でしかないだろう。
古稀の意味の由来について考えてみると、自分がその年齢に
達した今、「そうかナ〜、違うんじゃない」と思うのです。
60歳の“還暦”は再び生まれた年の干支に還るからであるし、
77歳の“喜寿“は喜の字の草体が七を三つ書いて七十七と
読まれるからであるし、88歳の米寿は米の字を分解すれば
八十八になるし、90歳の卒寿は卒の通用異字体「卆」が九十と
読まれるし、99歳の白寿は百引く一で白である。これらは字の
読み替えと現象で呼称されているが、これらは全て古来稀なる
年代であろう。ただ、古稀だけは平均寿命が格段に延びた現代に
おいては言葉の意味からするとマッチしないものかもしれない。
もう一方の短い旅を考えてみると、自分の人生、短いと思えば
今日という一日を大切に生きるであろう。昨日は、過ぎて
しまって存在しないし、明日もまだ来ていないので存在しない。
今日というこの一瞬が生きている証なのだ。今日が終わり夜が
明けると明日が今日に代わっている。禅問答のようだが、人生
とはこのように右・左・右・左と歩を進め、いつの間にか
遠い所まで重い荷物を背負って歩んで来たことをいうのであろう。
過ぎ去った日々を振り返ると、確かに短いものかもしれない。
しかし、その人生は決して苦しいことのみではないはずだ。
不足を常と肝に銘じ、何の変哲もない小さなことに喜びを見出す。
「秋の入日と年寄りは段々落ち目が早くなる」と言われるように、
最近は一日が、季節が、一年の経過が、早く感じられるように
なったのは確かである。まだまだと思いながら生きている私でも、
先のことを考えると時間が足りないことを自覚する。日頃は
人との出会いを“一期一会”の精神で大事にし、“人間万事
塞翁が馬”とばかりに一喜一憂せず、淡々と生きることを
心掛けている。
最近読んだ記事の中で、忙しいという文字は心偏に亡くすと
書き、あまり忙しくしていると人の心を失くしていってしまう、
といったことが書かれていた。私などは、忙しさにかまけて
何々を・・・といったことをよく文の中で使っていたので
これを読んだときに、心に隙間を作らないとそうなっていくかナ
と思ったものだ。それで忙しいの反対は何だと考えたら、
ユックリ、ノンビリ、イコール悠長(ゆったりと構えて気の
長いこと)を電子辞書で見つけた。そこに同音異義語があって、
悠長に構えた遊鳥(遊んでいる鳥)が優長(物事に優れている
こと)を目指して生きる。なんて言葉遊びをしてみた。
人生を長く生きるためには、私もそろそろ忙中に閑を求めるの
でなく、その反対の閑中に忙といった、心にゆとりを持って
ストレスを溜め込まないような生き方を考える時期がソロソロ
きたのかナと考える。現実には後、何年かは無理かもしれないが、
人生七十古来稀なりに到達し、Our life but a spanを我が人生
そうでもなかったと笑って言えるようなこれからでありたい。