2013年02月06日

二月為如(にがつをじょとなす) No120

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日曜も無いような忙しい1月が瞬く間に過ぎてしまい、月が
替わってしまった。

青少年健全育成と地域おこしの観点から始められた、直方ライ
オンズクラブ主催の“新春書初め大会”も無事に終えることが
出来ました。去年の秋から何カ月も準備をしてきたこの行事は、
直方市・小竹町14小学校の児童を対象とした書初め大会で、
今回で4回目を迎えました。参加児童数も年々増えていき、
今年は200名に手が届こうかというくらいになりました。
また、作品展示場への来場者数も500名を超す方々においで
いただきました。大会実行委員長の私といたしましては、手間
が掛かった分だけ喜びもおおきなものがありました。この大会
に関わっていただきました皆様の、ご協力とご理解に対して
心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。

この行事の他の日曜にも食事の予約が入り、お蔭様で年の初め
から目の回るような忙しさで、アッという間の1月でした。
本当は、忙しいことがブログを書けなかった理由にはならない
のですが、公のことがどうしても優先されるものですから、
私事が後回しになり時間が無いという言い訳となってしまいます。

家人のブログに載っていたのですが「いい時も 悪い時も続ける 
これが一番難しい 休むは簡単だから」。本当にそうだと思います。
いつでも出来そうな簡単な事ほど継続するのが難しいのかもしれ
ません。「言い訳しとる間はせんナ」と、プレッシャーを掛け
られながらの多忙な日々を送っています。

「二月為如」=2月を如となす。この言葉を見付けました。
早速調べてみると、「如は従うという意味、ひとつが動き出す
と萬物が次々に従って動き出すその状態をいう」と解されて
います。つまり、2月は如の状態→萬物・森羅万象・自然が
動き出す季節→春に向かって蠢動する月となります。

「きさらぎ」の語源を調べてみますと、着更着、衣更着
(きぬさらぎ)、生更木、草木張り月、気更来、息更来、
来更来など諸説ありますが、如月を絹更月・衣更月と綴ったり、
きぬさらぎと読んだりするので「ぶりかえした寒さに更に
重ねて着る(着更着)」の説が有力視されています。

また、如月の異称としては、建卯月(けんうづき)、梅見月、
仲春、雪消月(ゆきげづき)、令月・麗月、木の芽月(この
めづき)、小草生月(をぐさおひづき)などがあります。

我が家の門の両側にある花壇の水仙や、庭の梅の花がようやく
一輪・二輪と咲き始めました。これには“小草生月”という
言葉がピッタリではないでしょうか。先月末からこちら、
暖かい日が続きましたから、花たちも春が来たと勘違いして
慌てて咲いたのかもしれません。明日(6日)の天気予報は
全国的に大雪になるとのこと。折角、咲き出したのに寒さに
凍えて「咲くのをもう少し後にしよう」となるかもしれません。

来月の啓蟄(3月5日)まであと1カ月。節分・立春が過ぎ、
雨水を迎えるころには我が家の庭の、水仙も梅の花も満開と
なることでしょう。毎年、繰り返される自然の不思議さ。
それと同時に一つずつ年を重ねていきます。生きているから
こそ増えていく、自分の年を数えながら、今年も元気で
頑張ろうと、梅の木に飛んできたメジロを眺めながら思った
ものでした。

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2013年01月15日

初めてのHELP NO119

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明けましておめでとうございます。暮れの30日まで仕事をし、
大晦日は恒例の大掃除。昨年を振り返れば家族みな健康に過ごし、
1年を無事に乗り切ることができました。故に、良い年で
あったと思います。

大晦日は22時までに全てを終わらせて、剛士と親子3人で
お酒を飲みながら新年を迎えました。元日,恒例の荒五郎山に
登り、初日の出を拝もうという話になりましたが、雪が降って
晴れ間は望めないとのこと。各自、自由起床ということで
2時過ぎに就寝。お昼頃に起き出すと外は一面の銀世界。
まるで子供のように「雪だ雪だ」と騒いでいたら皆、起き
出して来た。新年の挨拶もそこそこに、写真を撮りに庭へ
出て行きパチリ,パチリとシャッターを押す。手足が冷たく
なってきたところで部屋に戻り食事の用意。

私たちの休みは元日の1日だけ。2日は食事の予約が入って
いるので早くから出なくてはいけない。剛士も2日から仕事だ
という。夕食は久し振りに長男も帰って来て、すき焼きを
囲んで酒盛りに。若者は熱く語り、年寄りはそれを肴に酒を
飲む。深夜まで宴は続き終わることを知らない。

2日はお店に出る前にすみれ会館(葬祭場)へ。ライオンズ
クラブのIさんのご尊父が亡くなられ、お葬式が12時から
執り行われるため、長男と参列することになった。去年の
秋からこちら、私の知り合いの葬式に参列することが例年に
比べると非常に多く、懐かしさと寂しさと悲しみが繰り返し
訪れてきた。親との別れは遅かれ早かれ、誰にでも訪れる辛い
体験であるが、新しい命が誕生するように古い命が消滅して
いくのは世の常なのである。奥歯を噛み締めて悲しみに耐える
しかない。そうやって世代は交代していくのだ。霊柩車を
見送るために外へ出ると、悲しみの雪が舞っていた。

正月三が日、雪が降り、寒い新年のスタートとなった。
13日(日)は直方ライオンズ主催の書き初め大会があり、
20日(日)には作品展示・表彰式がイオンモール直方で
行われるため、実行委員長である私はその準備に追われている。
27日(日)も予約が入っているため、6日(日)は貴重な
休日であった。普段であれば昼からサウナ行きとなるので
あるが、宿題を片付けなければならないため、終日その作業に
没頭していた。

4時過ぎに剛士から「スタッフが2人も休んでお店がてんてこ
舞いで手が足りないから2人で応援に来て」と要請の電話が
入った。家人の了解もとらずOKの返事をして電話を切り、
「今から剛士んとこ行くよ。風呂沸かして」。お風呂から
上がり準備をしているところに「忙しくなる前に仕事の説明を
したいから出来るだけ早く来て」と、メールが入り、車の中で
「HELPの電話は初めてだネ」。「我々で役に立つのかいナ」と
話しながら、大急ぎでお店に着いたのが5時半だった。

我々が到着した頃には大忙しさのピークは過ぎていて、洗い物が
シンクに山と溜まっていた。私は表周りと器引きを担当し、家人は
洗い物をやることに。簡単に作業の手順や洗浄機の説明を受け
作業開始。ピーク時ではないとはいえ、次々にお客さんは入って
来る。お客さんを見ると身に着いた習慣で「いらっしゃいませ〜」
と大きな声が出る。家人はいつものように黙々と洗い物を
こなしていく。焼肉とラーメンの油で汚れた器と格闘して
いるのを見ると、いつもとは少し勝手が違うようだ。

昼間のスタッフが少なかった分、洗えなかった器プラス、
お客様が帰られる度に私やスタッフが引いて来るから、
洗い方は手を休める暇もない。私も器引きをしながら次の
お客様が気持ちよく食事されるように気を配り、足元のゴミや
テーブルの拭き残しがないか点検する。3時間ほど仕事をして
一段落付いた頃に「上がってください」の声が掛かった。
オーナーの奥さんのお礼の言葉と共に「ご飯を食べて帰って
ください」の勧めをあまり固辞するのも失礼と思い、甘えることに。
2人で焼肉をご馳走になり、ご飯も焼肉もお代わりを頂戴し、
お腹いっぱいになって退散することに。

見送りに出てきた剛士店長が「ボクの獅子奮迅の働きぶりを
見てもらおうと思っていたのに」。判ってますョ。タケちゃんが
頑張り屋さんなのは。只、母親の目から見たタケちゃんは頑張り
過ぎに映ります。体に気を付けて、心を丸く、気を長く、腹を
立てず、もう少し自分の時間が取れるような働き方をしては
どうでしょうか。老婆心ながら。笑顔の素敵な息子へ・・・
スマイル!
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2012年12月18日

師走になりました(No118)

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12月は1年の終わりの節目の月です。「大祓い」という
行事もあり、1年の罪・咎(とが)・けがれや不幸を全部流して、
新しい年を迎えるための総決算をする月なのです。今年も残す
ところ3週間となりました。71年前の今日(8日)は太平洋
戦争開戦の日である。若い世代に12月8日は何の日と質問する
とビートルズのジョンレノンが暗殺された日と答えが帰ってきた。
記憶する事柄にも世代交代の波が押し寄せているのだろうか。

師走に入って祝い事や弔い事などが続く。祝い事はライオンズ
クラブのIさんとNさんの会社で、同じ糸島でリニューアル
オープンがあり、Iさんの所はクラブの持ち出し委員会で伺い、
Nさんの所へは伺う時間がなくて、連名でお祝いを届けた。
8日の昼からは、鞍手斎場で柴田鞍手町長の葬儀に参列した。
役場でお会いした時に「体調が良くなったら顔を出すから」と
仰っていたが叶わぬこととなってしまった。任期半ばの74歳は
早すぎる逝き方ではないだろうか。広くない斎場に多くの弔問客
が参列し、最後まで立ちずくめのお年寄りには気の毒であった。
強い北風が吹く寒い日の葬式であった。

この1週間、寒波の襲来で寒い日が続いている。日曜(9日)
にはついに雪が舞った。金・土曜と忙しく働き、いつもであれば
サウナで鋭気を養うというのがいつものパターンであるが、
昼過ぎからお店のスタッフ2人と共に、Y子さんのお見舞いに
出掛けた。明日が手術と聞いていたので、その前に励ましに
行こうとなった次第なのだ。私たちが顔を出すと、彼女は泣き
出さんばかりに喜んでくれた。時間も忘れて話し込んでしまった。
気が付くと病院の食事の時間となっており、「受け取れません」
という手にお見舞いを握らせてお暇(いとま)した。帰りに
簡単な食事をして家に帰ったのは8時近かった。別れ際に
「私たちの忘年会になりましたネ」の言葉に、最近忙し過ぎて
ミーティングの時間もとれてなかったことにチョッピリ反省。

12月は忘年会のシーズンである。早いところは11月の
終わり頃から始まる。昨日(7日)もある会社の忘年会があり、
50人からの接待であった。前日から仕込みに入り、当日は
総動員で18時半開始にむけて準備に追われる。乾杯の音頭
から始まり最後のフルーツを出すまでフルの戦闘モードなのだ。
2次会、3次会までお店を利用していただき、有り難いことだと
感謝しております。社長をはじめ幹部の方のご挨拶を伺って
いますと、自信に満ちていて元気のいい会社であるということ
がよく判りました。

ここまで書いて10日が経過してしまった。入れ替わり立ち
替わり、毎日のように用事が出てくる。仕事とこの用事を
こなすのが精一杯で、自分の時間が摂れない。よって、作文が
書けないという図式になっている。16日の衆議院選挙の投票日
には中学時代の打ち上げ忘年会がお店であり、休日返上で対応
する。

今日(18日)、嬉しい知らせが届いた。Y子さんから退院の
知らせが。手術は成功してすぐに退院の予定であったのが、
経過が思わしくなく1週間遅くなってしまった。ここから又、
1週間経過。お店の忙しさとその他の用事が重なって、どうして
もパソコンに手がのびない。12月の初めに仕上げていなければ
いけない文章が“往く年来る年”のようなものになってしまい
ました。

昨日はクリスマスイブ。私の年になるとサンタさんは縁がない、
はずなのですが、毎年私にもプレゼントを頂くのです。サンタ
さんからのメッセージカードに「良い子のところにサンタさ
んは来るよ」と、書いてありました。ヒョットしたら隣の煙突
と間違えて配達されてしまった?。
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2012年12月10日

終の住まいについて考える(No117)

インターネットにこのようなタイトルの記事を見つけた。
興味があり読んでみると、成程と思えることや、自分には
こんな考え方はないナーと思えることなど。基本的にどこか
へ移り住みたいという考えが、私にはないから議論にはなら
ないのだが、只、男女の考え方の違いがどこからきている
のかを考えた時、“憧れが強い男性”に対して“現実的な
考え方をする女性”という構図が見えてくる。

団塊の世代を中心とするシニア層は、就職で地方から東京など
都会に移り住んだ人が多い。リタイア後は、故郷回帰と言い
ますか、自然豊かな環境の中で余生を送りたいと考える人も
多いだろう。自身の通勤や子供の通学などの制約される条件が
無くなることにより、田舎への定住も可能になるだろう。

物事には二面性があり、都会に住むにしろ田舎にしろ、プラス
・マイナス面、メリット・デメリットというものがある。
都会に住むメリットは一言でいえば便利だということ。通勤・
通学・通院・買い物・その他諸々を考えてみても田舎より
勝っているだろう。他方、デメリットと言えば、衣食住全て
に経費が高いことが挙げられるだろう。それに人間関係が田舎
に比べて希薄(プラスorマイナス?)、里帰りが大変(これは
私が娘のことで実感している)など。

一方、都会から離れた地域を田舎と呼ぶそうだが、確かに都会
に比べれば不便さは多いのは事実である。車がないと通勤も
買い物にも手間が掛かる。子供の進学や、色んなものの選択肢
が限られてくるなどが挙げられるだろう。メリットとしては、
緑が多く自然が豊かである。土地の値段が都会に比べたら安い
ので家賃・駐車場代や物価・人件費が安くなる。当然、収入も
少なくなるだろうから生活するのにどちらが住みやすいのかは、
私は都会の生活をしたことがないから比較ができない。

私の住んでいる鞍手町は、どちらかというと田舎の部類に
属する地域であろう。この地に家を建てて移り住んで40年
以上になる。実家も姉の家もすぐ近くにあり、いろんな面で
助けてもらった。この地に子供の頃から住んでいるので小学校
時代の友達とも半世紀を超す付き合いがある。人間関係を
はじめビジネスや生活の基盤がこの地にあり、今更、便利だと
はいえ知らない都会に移り住もうという考えは毛頭ない。

家人はというと、40年以上この地に住んでいても、馴染め
ないものがあるという。それは有形無形の“ムラ意識”だ
そうで、よそ者が入って行けない雰囲気というか、これは
外から入って来た者にしか判らないことだという。現役の
頃は出張が多く後半は長いこと単身赴任で出ていたから、
地域の人たちと交わることが少なかった。それでも、村の
出事や催し物にはよく参加してくれた。我が家では溝掃除は
夫、食べ事は私という風に、不文律が出来上がっている。
こんな家人でも都会に住みたいとは思っていないようだ。
住めば都ということであろう。

こんな私たちは、定住農耕民族の末裔なのかもしれない。
仕事を考えてもこの道一筋であるし、家人も基礎工事一筋で
あった。仕事も一つ、住まいも一つ、夫婦も一つ、いたって
シンプルなのだ。複雑な世間を渡って行くには、荷物は出来る
だけ軽くした方が楽なのである。こうやって文を書きながら今、
頭に浮かんだのは、転勤族の人たちはリタイア後はどこに住む
のだろうと。国内だけでなく海外にまで出かける人も珍しくは
ない時代である。

こんな話を読んだことがある。海外赴任の商社マンの夫に嫌々
ついていく奥さんの話である。場所はシンガポールだったと思う。
住まいは広くメイドからお抱え運転手まで付き、子供は日本人
学校に通わせ、同じ境遇の奥様たちとパーティ三昧。任期が
終わり日本に帰る時期になった時、現地と日本の都会の生活の
落差を思ったときに、あれほど来たがらなかったのに、思わず
「帰りたくない」。

これぞまさしく、“現実的な考え方をする女性”ではないだろ
うか。要は自分にとって一番落ち着けて住みやすい場所を、
終の棲家にすればよいのだろう。理想を言えばモレシャン夫妻
のように、パリと金沢を行ったり来たりがいいのかナ。家人は
寒がりになってしまったので、冬なしの,日本とオーストラリア
を往復するのがいいかもしれない。

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2012年12月01日

飛行機とバスと赤ちゃんの泣き声(No 116)

この1週間ほどの間に、私は赤ちゃんの泣き声について目に
したり、文章を読んだりした。インターネットのニュースの
見出しに“機内での赤ちゃんの泣き声にブチ切れ”というのを
目にしたのであるが、全く興味もなくもう忘れていた。何日か
前のテレビの番組で、スィッチを入れた途端の映像が、バスの
運転手さんが「…赤ちゃんは泣くのが仕事です。どうぞ皆さん、
少しの時間、赤ちゃんとお母さんを一緒に乗せて行って下さい」
と言った。番組の途中からだったので前半の台詞は聞けなかった
が、容易に想像はつく。

おそらく、満員のバスの中で赤ちゃんが泣きやまず、周りの
乗客に迷惑がかかると若い母親は考え、途中の停留所で降り
ようとしたのであろう。画面の中では、ほんの数秒が過ぎた時、
一人の拍手が起こり、つられてバスの乗客全員の拍手となって、
それが賛同の答えとなったのです。若いお母さんは嬉し涙を
流しながら、何度も何度も頭を下げていました。

この話は過去にあった実話だそうで国語の教科書にも「バスと
赤ちゃん」のタイトルで載っているそうです。この後に、アメ
リカ版「バスと赤ちゃん」が流れてきた。こちらの方は、後部
座席で泣きやまない赤ちゃんを抱いた母親に、女性の運転手が
「泣き声が迷惑だから降りてくれ。でないと発車できない」と
何度も催促し、終いには母親はバスを降ろされてしまう。この
まま発車してしまうのかと見ていたら、一人の若者がバスを
降りて行った。次々と後に続いて全員がバスを降りてしまう。
運転手の行為に対する無言の抗議なのだ。一人の女性が赤ちゃん
を抱く母親に近づき「皆、貴女の味方だからネ」。

日米で運転手と乗客との違いこそあれ、“人情紙の如し”と
言われる昨今に於いて、“チョットいい話”ではないだろうか。
しかし、いつの頃からこのような話が美談になったのだろうか。
“家貧しくして孔子出ず”ではないが、貧乏長屋の住民たちは
コメでも味噌でも隣に借りに行き、隣もまた、こちらに借りに
来るといった、”お互いさま“という相互扶助で人間関係が成り
立っていた。ないないずくしの中で生きるということは、色んな
工夫をするし助け合わないと立ち行かずで、そのようにして相手
を思い遣る精神が身に付いていくのではないだろうか。

核家族、少子高齢化、個人主義など、相手を思い遣る精神の欠如
に対する理由付けを挙げるとするならば、山のように出てくる
ことだろう。只、世の中を見渡してみれば豊かになったせいな
のか、個人の権利を主張するようになったせいなのか知らないが、
音に対する許容範囲が狭くなってきている気がするのは私だけ
だろうか。工場や工事から発生する騒音に始まり、車のエンジン音、
蝉や蛙の鳴き声、赤ちゃんの泣き声でブチ切れるに至っては世も
末だナと思ってしまう。

これは40歳代の女性マンガ家が飛行機内で赤ちゃんの泣き声に
切れて、その母親と日航にクレームを付けたというものである。
対処の仕方もさることながら、子供を育てた経験のある女性なら、
泣かれた時の辛さやどうしていいのか判らなくて困ったことは
何度もあったはずである。どうせなら文句を言う代わりに「私が
泣きやませてあげるから」と赤ん坊を抱っこして笑わせてやれば
美談になったものを。我慢をするとか、辛抱するとかが身に付いて
いないのだろう。

子供の頃から繰り返し訓練をして、身に付けさせる躾の基本の中に、
人と調和した行動がとれる自立した人格と言うものがある。我慢や
辛抱、思い遣りや慈しみなど、社会生活を営む上で備わっていな
ければならない品性である。これが欠けてるばかりに機内での
ブチ切れに繋がったのではないのだろうか。バスでの出来事が
良い話なだけに残念なことだ。

子供叱るな 来た道だもの  年寄り笑うな 行く道だもの  
来た道 行く道 二人旅  これから通る 今日の道  
通り直しの 出来ぬ道
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2012年11月22日

今日は何の記念日(No115)

お店の開店準備をしていて、リモコンを操作してカラオケの
モニターを点けた時、いつもなら気にも留めない画面の
テロップに“禁煙の日”というのが流れた。何日だろうと
見ていると22日禁煙の日と出た。してそのこころは?と
見ていると、数字の「2」を白鳥(スワン=吸わん)に
見立て「22」で「吸わん吸わん」との語呂合わせからと
流れてきた。

11月22日には「良い夫婦の日」というのが一般的に
知られている。他に何かないかと調べてみるとあった。
“ショートケーキの日”というのが。これは一捻りも二ひねり
もしてある。クイズに出てきても正解はないだろうという
ようなものだ。カレンダーで22日の真上には15日があり、
ショートケーキの上には苺(15)が乗っていることから。
いつものことながら誰が考え出すのやら。

記念日というものを考えてみると、大は祝祭日から小は
ローカル・プライベートに至るまでどれ程あることやら。
夫婦・親子や恋人同士にも其々に記念日はあるだろう。
11月19日は次男剛士の28歳の誕生日であった。
2年前の2010年11月17日のブログに“Happy Birthday
to you”というタイトルでバースディメッセージを書いている。
読み返してみると、ジャガーズ(硬式野球)時代のバッター
ボックスに立つ剛士の写真(凛々しい)や、4歳のピアノを
弾く写真(可愛い)と共に子育ての思い出を綴っている。

今年は忙しさにかまけてメールも送っていない。どこそこから
「金使わんのなら気ぐらい使わにゃネ〜」と批難の声が
聞こえてきそうだ。10日ほど前には京都から孫たちが
里帰りしてきた。あんなこんなで気を使う事をやりすぎて、
只今サービスは品薄となっておりますので今しばらくお待ち
ください。私たちにはいつも気を使ってもらっているのに、
一方通行は良くないネ。

改めて“良い夫婦”とは何ぞやと考えてみた。この記念日は
1988年から始まった行事で、二人の時間を大切にする日
だそうだ。母の日・父の日・敬老の日・子供の日とあるから
夫婦の日もとなったそうで、知らなかったが孫の日(10月
第3日曜日)まであるのだ。夫婦円満の為に必要なことの
第1位は「よく会話する」という結果が出ている。このことを
我が家に当てはめてみると、よく会話するほうだと思う。
只、若い頃から世間話や井戸端会議的な話になると、黙って
席を立っていた。最近では随分と丸くはなったが、会話の中で
段々喋らなくなってくるから「アァ、そろそろこの話題はヤメ
時だ」と察知して方向転換を図るようにしている。会話の中で
妻が夫に求めるものは、自分の思いや感情を理解してくれ、
その理解を示す言葉が欲しいのだ。妻に贈るべきものは、
愛情のこもった言葉であり、夫が妻へプレゼントすべきものとは、
日常生活の中での「思い遣り」なのである。

こういった議論になると、卵が先か鶏が先か、Give and takeか
テイク&ギブかとなって、「それを言うならそちらから」と
返されそうである。なので、長い時間を掛けて少しずつ矯正
していくのだ。、将棋と一緒でアーくればこう指すといった
具合で、相手は意地っ張りだからその性格を逆手にとって、
「そこまで言うのであれば意地でも直す」という言質(げんち)
を取ればこっちのもんで思う壺なのである。

夫婦とは、摩訶不思議な関係で、良くなればこれ以上の物は
ないと言う位、幸福満杯なのだが、一旦悪くなれば手の付け
ようのないくらい最悪の状態に陥る。生まれも育った環境も
違う二人が一つ屋根の下で暮らしていくのだ。何も無い方が
おかしい。家人が若い頃から言っていた。「人は別れたくなく
ても死に別れという別れがある。だから俺は生き別れはせん」と。
姉に言わせると、人相は悪い、根性は悪い、愛想は無い、よく
やっていくね〜。おっしゃることには納得ですが、私にさえ良け
れば多くを望みません。破れ鍋に綴じ蓋。これ以上の相性は
ございませんことョ。オ〜ホッホホ〜。
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2012年11月15日

孫台風 一部始終(No114)

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11月9日(金)の仕事を終え、私たちが自宅に戻ったのが
夜中の2時前であった。車を降りた途端に娘家族の車が
駐車場に入って来た。9月に4歳の誕生日を済ました2人の
孫たちの到着である。

里帰りを知らせていた剛士も先に帰っていて、真夜中だという
のに大騒動である。結局、4時過ぎまで孫たちもテンションが
上がりっぱなしで寝らず、再開を喜び合って飲んで食べての
大宴会となった。次の日の10日(土)だけは何も予定のない
フリーな一日で、明日はライオンズの行事で朝早く福岡に
行かなければならない。いつも時間が足らず、こちらも忙しい
環境での里帰りであるため、毎回、同じような接待しか出来ない
のが心苦しい。結局、毎度のことでお昼を剛士のお店で焼肉を
食べることに。早々に就寝。

我々とは生活パターンの違う娘家族は早起きである。朝早く
から孫たちの声が聞こえている。ジージー・バーバだけの
生活には無い騒がしさを耳にしながら、記憶を辿り自分の
子育てがどうであったかを思い出している。40年ちかく
前のことなので記憶が曖昧になっているためなのか、どうしても
自分の気持ちの中にズレがあるのだ。その違いが何であるかを
考えてみると、どうも優しさに違いがあるようだ。それに、
厳しさの質と量に違いというか差があるような気がする。

私の子育ての基本は“自分のことは自分でする(自分の身は
自分で守る)”というもので、学校に行ってる間は優しさ
よりも厳しさが勝っていたような気がする。社会生活を営む
上での身に付いていなければならない基本的なものに、挨拶を
始めとする言葉遣い、多くのマナーやルール、身の守り方、
箸の上げ下げに至るまで,挙げると際限が無いほど出てくる。
年を重ねる度にレベルは上がっていく。身に付いていなくて
困るのは子供自身だから、最初に泣かせて後で笑ってもらうを、
躾の基本と考えて敢えて厳しくするのだ。これには考え方は
百人百様であるから、多くの反対意見や少数の賛成意見が
あることも理解している。こうして育てたつもりの娘でさえ
優しさを優先した育て方をしている。優しさのなかの厳しさ
なのであろう。私は逆をいったのかもしれない。

お昼過ぎに出発。お店で長男と合流して小倉へ。焼肉を食べ
始めた頃に一段落した剛士も食事に加わる。半年ぶりの
家族勢ぞろいだ。孫たちを観察してみると色んなことが
見えてきて面白い。この二人は男女の双子で智恵(姉)
と宗治(弟)という。4歳ともなると男女の違いが出て
きているのが判る。宗治は元気が良いし言葉も幼稚園に
通い出して少し乱暴になっている。一方、智恵の方は
大人しく母親に抱っこをせがむ甘えん坊である。去年まで
はつまらない理由で喧嘩して、注意されると二人とも泣き
だすというシーンも見られたが、今度は全く無かった。
娘の話によると、最近「赤ちゃん還り」をしているそうで、
やたらと甘えるらしい。

我が家では、4歳の誕生日から子供部屋で寝かせていた。
長男は一人で寝ていたから心細かったに違いない。これが
親離れの第一歩と考えていた。これに加えてひらがな・
カタカナ・数字・アルファベットの読み書きを教えた。
少し早いと思われるかもしれないが、やってみると1週間
くらいでマスターした。娘にも「やってみたら」と薦めると
「ウチはまだまだ」と笑ってとりあわなかった。

食事を済ませて直方イオンモールのオモチャ屋へ直行だ。
今回の買い物には一捻りあって、それは宗治が欲しがって
いるオモチャがテレビの戦隊物のヒーローが使っている
武器だそうで、子供たちの間では超人気のオモチャのため
品薄らしいのだ。店頭では手に入らないため、父親が
インターネットオークションで倍くらいの金額を出して
先に買ったとのこと。この説明を受けて家人が用意して
いることに物語は決定。しかし、「店頭に現物があったら
どうするの」と問うと、「オークションに出して高く売る
から心配なく」。このあたりがアナログバーバは理解でき
ない。幸い?にも売り切れで品物はなく、智恵だけのオモチャ
を買って、半分納得のいかない顔の宗治をだまし騙し連れて
帰った。帰りの車の中のブーたれた顔と、欲しかったオモチャ
を手にした時の笑顔との落差が大きく、皆で笑ってしまった。

翌11日は朝からあいにくの雨。私は早朝より福岡へ。後で
聞くと皆で京都に持ち帰るお土産を買いに出掛けたとのこと。
思ったよりも福岡の用事が早く終え、お寿司をお土産に自宅へ。
今回も娘とはユックリ話も出来ず、孫たちとも接する時間も
なかったが、小さな体をギューっと抱きしめてやった。ハグを
あと何回できるのだろう。娘がセッセと里帰りするのが何と
なく理解できる。先を見越しているのだ。私の寿命を・・・。

親あっての里帰りであり、親孝行なのだ。長男も次男も甥たち
にお小遣いをやっていた。勿論、私たちも。二人で静けさの
戻った居間でコーヒーを飲みながら、私はバーバ冥利に尽きる
ことの幸せによっている。
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2012年10月30日

日本舞踊とコスモスと鷹取山(No113)

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27日から3日間にあった出来事である。土曜日(27日)は
朝から雨がパラつく生憎の空模様であった。12時から飯塚市に
あるコスモスコモンに於いて、ライオンズクラブのYさんの日本
舞踊の初舞台というのでチケットを2枚頂いていて、家人と
二人で出掛けた。

開演15分前に着く。私は最前列に陣取ったが、踊りにあまり
興味がないのか、家人は中段のビデオ撮りしている横の席に
座った。約2時間、下は4歳から上は84歳までの踊りを
見せてもらった。日本舞踊をやっている友達に声を掛けられ、
踊りを見に行くことは多いのだが、今回はレベルも高く、
舞台の仕掛けもしっかりしたものであった。終演後の楽屋を
訪ね「初舞台とは思えぬ出来でした」と言うと、「アガリま
した」
と謙遜していた。帰りの車中や昼食のステーキを食べながら
の会話の中で、「2人で踊った左は美人であったが、踊りは
右の人が上手であった」とか、「4歳と6歳ではこれ程の
進歩があるのか」、「女踊りより男踊りのほうがいい」などど、
家人が以外とシッカリ見ていたことが伺え、亭主も捨てた物
ではないなと、感心し直したしだいです。

翌28日の天気予報は朝方まで雨が残り、午前中は曇り、
昼からは晴れというものであった。予定としては午前に
方城町のコスモス祭りにスタッフと顔を出し、昼から鷹取山に
登ろうというアウトドアーの行事予定であったから、天気が
気になっていたのだが、予報どおりとなり一安心。

10時半に現地集合で出掛けたのだが、去年の場所に行くと
何もない。探すと500mほど先の田んぼに沢山のコスモスが
見えた。去年は開花のタイミングが悪くあまり咲いていなか
ったが、今年は満開である。担当のIさんに話を聞くと、
「種を播いた後の雨が幸いした」という話であった。この
コスモス祭りは、つい1カ月程前に農作業の最中にトラクター
による事故の為、亡くなった元方城町町議のKさんのご尽力で
始まったもので、もう10年を超すお祭りとなって定着して
いる。テントの中のオニギリを売る場所にKさんの写真が飾ら
れていた。挨拶すると、息子さんと娘さんという。写真に皆で
手を合わせ冥福を祈った。事故さえなかったら元気なお顔を
拝見出来たのにと残念でならない。

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皆と別れ、ヨーコさん親子と鷹取山練習登山へ。家人以外は
「登れるかしら」と自信がない。恐る恐る薙野の休憩所を目指
して登山開始である。風は冷たいのであるがすぐに汗ばんで
くる。いつもと変わらぬ時間で休憩所に到着。意外と疲れて
いない。それから途中の岩場で1回休み、上野越え、鷹鳥山頂上
へと順調に登れた。ヨーコさんたちも予想外に元気よく登れたと
喜んでいて、来週の本番に向けて自信が付いたようだ。下山は
例の如く私が先頭で、スズちゃんと2人で大手を振りながら、
ヨーコさんたちに構わず早々に山を降りた。

お腹が空いたのでみんなで小倉の剛士が勤めるお店に焼肉を
食べに行く。腹一杯お肉を食べていざ支払いの段になって
ウエストポーチに入れていたお金がないのだ。よその店で
なくて良かった。剛士に話して払ってもらう事に。「つい何日
か前にオトンとオカンに小遣いやったやろ。新手のオレおれ
詐欺かいナ」と皮肉られた。

帰って布団に入って何処で失くしたか考えるのだが、山頂しか
思い浮かばない。家人を起こし、「明日も鷹取山に登ろう」と
言うと本人は自転車のつもりでいるから返事を渋る。私の方は
雨に備えて月曜を予備日にとって予定を入れていなかったので、
ヤル気マンマンである。渋々承諾させて就寝。朝5時から弁当の
用意をして8時に出発。連チャンの山登りは初である。今日は
下の駐車場に止めて出発。時間が早い分昨日より寒い。昨日と
同じく元気よく山頂へ。思い出しながら昨日の動線を辿って
財布を探す。半ば諦めかけた時に家人が見付けてくれた。
嬉しくてお弁当の美味しいこと。

下山する道すがらキッチリ説教された「あなたは安全や危機
管理などの管理能力に欠ける。落とすな、失くすな、盗られるな、
騙されるな、なまじ金をもつな。」お説ご尤もでございます。
以後、気を付けます。無い金は落とさんもんナ〜。
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2012年10月13日

色々な秋があります(No112)

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前回の諸九尼が重たかった。突然、私の目の前に現れて
半月ほどそれ一色になっていた。これを書き終えてから
文を書く気になれない。このところパソコンは開くものの、
事務的な処理だけでワードには近づかない。思考が停止して
いる状態と言おうか、自分では月に3つは書きたいと考えて
いるので、10日を過ぎてそろそろ何かをと思い、取り敢えず
頭の中に浮かんだ文字を並べていく作業をやっている。

この2〜3日は初期の頃のブログを読み直していた。いつもの
癖でデータ取りをしてみた。“お店の名前の由来(2008/
6/18)が第1回である。ここまで111の話を書いている。
思い返せば、パソコンの技術が稚拙なため、最初の頃は短い
ものが多い。最近のものと比較すると1/3程度であろうか。
写真も載っていない。時には何カ月も空いている時もある。
文章が書けない精神状態であったのだろう。ジャンルも多岐に
亘っている。タイトルを見ながら摘み読みをしてみると、
懐かしさやその時の思いや考え方が見えて、笑えたり、
涙したり、我ながら感心したり、ブログを書いて良かったと
今更ながら思う。

私の夢の一つに、喜寿を迎えられたらその記念に、このブログ
の記事をまとめて自費出版し、これまでお世話になった皆様に
読んで頂きたいと思っているものがある。自分史というほど
大それたものではなくて、その時に体験したことや、目にした
もの、世の中で起こったことなどを綴って回を重ねてきたものだ。
書き始めてこれまで4年と4カ月になる。短いようで長いよう
で、千里の道も一歩からというが、自分としてはよく頑張って
いるじゃ〜ないかと、褒めてやりたい気分でもある。家人も
ロードバイクで世界一周40000Kmを目標に頑張っている。
現在20か月で2万Kmを越えたと言っていた。これは日本から
ブラジルまでの距離だという。千里どころか5千里ほども
走っているのだ。積み重ねとは凄いものだと改めて感心する。

喜寿まであと8年ほどあるからこのペースで書いていくとすると、
300話を越すことになるだろう。しかし、これには心身共に
健康で、という条件付きなのだ。これからはいつまでも薬いらず
医者知らずという訳にもいかないだろう。喜寿まで生きていると
いう保証などないのだから。毎日を忙しく立ち働いている私たち
は、これまでは病気をしなかったから、この先も健康でいられ
ると無意識の内に勘違いしているのかもしれない。と同時に、
ともすれば健康であることに感謝することを忘れている。

ボケるかもしれないし、手足が不自由になるかもしれない。
そうなると忙しくなくなるかわりに、働くことはおろか、
散歩も山登りもゴルフも体操もブログも出来なくなる。
現在の忙中に閑を求めて、物事をこなしていく日々が、
如何に幸せで貴重な時間を過ごしているかを感じずには
いられない。来年は直方ライオンズクラブ初の女性会長と
して今よりももっと忙しくなる。この部分が大きなウエイトを
占めるだろう。かと言って、これまでやってきたことを辞める
つもりはない。回数は減るかもしれないが続けていきたい。
それには健康面は当然のこと、時間の使い方にも工夫が必要と
なろう。

今は暑かった夏が終わり、秋真っ盛りである。食欲・スポーツ・
文化・読書と秋の頭に付く言葉を並べてみた。このところの
自分を振り返ってみると全部やっている。前回の諸九尼は
文化に属するかナ。とにかく文化はいつも重たく書きにくい
ものだ。次回は軽妙にスポーツでも書こうと考えている。
今回からナンバーを書き入れている。遠くまで来たことを
感じるために。
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2012年10月04日

後日談 諸九尼

DSCF7250_20121005.jpg

前回、石碑の写真を見てから一気に諸九尼のことを書き上げた。
写真が3枚に文章も長くなったので紙面が足りなくなり、書き
たい記事が残ってしまった。それに私の勘違いもあったし、
これはパート2を載せなければ完結しないと考え、追記して
いる次第である。

第一の勘違いは、御影石の石碑が本物だと思っていたのだが、
木を見て森を見ずの例えで、本体は写真にあるように、右後ろ
に高さ2mほどの自然石で出来た石碑なのだ。ここには草書体で
俳句が書かれているため、素人には判読できない(と思う)ので、
御影石の石碑はその説明のために建てられたものであった。

私が思うに、辞世の句よりもこの石碑の句のほうが、諸九尼の
生き方・悩みをよく表していると思う。分別とは、“理性で
物事の善悪・道理を区別してわきまえること”とある。浮風、
諸九尼のどちらかにもう少し分別があったなら、家庭を捨てる
ことはなかったのかもしれない。自分自身に置き換えて、女の
立場を擁護しつつ考えを進めてみると、「連れて逃げて」と
女の方から言ったかもしれないが、最終的な判断はやはり、
男の方だったのではなかろうか。もし、浮風が家庭持ちで
あったなら、その場限りの浮気で済ましたかもしれない。
家庭と己の立場を天秤に掛けても女を取るとしたら、それは
もう男女の業としか言いようがないのではなかろうか。

ただ、救われるのは浮風とは死ぬまで仲睦まじく連れ添って
生きたと思われることである。偕老同穴な生き方といい、
比翼塚という名付けといい、それをよく表しているではないか。
理解しがたいのは、浮風の17回忌を終えて40年近く暮した
京から、田主丸に近くなる直方に何故移り住んだのか。
2年ほどで亡くなっているから、死期を悟って浮風の生まれ
故郷で最期を迎えたかったのだろうか。このあたりは本を
読めば判るかもしれない。生まれ育った田主丸では、家庭を
捨てて駆け落ちした諸九尼の評価は芳しいものではなかった。
最近になって研究や本の出版などされ、地元でも女流俳人
「諸九尼」として見直されて顕彰などもあっているようです。

直方市では毎年、諸九尼の命日である9月10日に俳句大会を
催しているのですが、今年は9月9日に直方文化連盟主催の
直方と田主丸を結ぶ「浮風と諸九尼232回忌」交流記念講演
および追善俳句大会が行われました。このことに関連する記事が
市報のおがた(No767)平成20年9月号“折々の風“
(文 舌間信夫) 「諸九尼遺聞 B 直方と田主丸」という
コラムの最後に書かれていました。それには、「最近、諸九尼忌
の話が持ち上がっている。縁ある直方と田主丸の俳人が交流し、
合同句会を持ってはどうか。もし実現するならば文化的意義は
大きいといえる。諸九尼も草葉の陰で喜ぶに違いない」と、
書かれていて、この実現に向けては郷土史家である舌間先生を
はじめ、両地区の関係者の方々のご尽力があるのですが、
この後、努力が実を結び、生まれ育った地と終焉を迎えた地と
が文化交流を果たすのです。

諸九尼の半生を考えた時、心の奥には懺悔の気持ちが絶えず
あったと思うのです。夕陽が沈む西に向かって手を合わせて
いたのかもしれません。浮風の死後、剃髪し尼になったのも
その表れであり、7回忌を終わらせた後に奥の細道を尋ねた
のも、17回忌という心の区切りをつけて直方に移り住んだのも、
自身のケジメをつけたかったのかもしれません。帰るに帰れ
なかった故郷の、人々に認められたことを諸九尼が知ったと
したら、心の重荷を降ろすことが出来るのではないでしょうか。
諸九尼の残した足跡が、230年という長い時を経て、人々の
心の中の蟠(わだかま)りを溶かし、結びつける役目を果たした
のでしょう。
posted by ochiyo at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記