2010年01月27日

無用の用

新聞で面白い記事を見つけた。
この記事を抜粋すると、(働き者と言われるアリの集団にも、
ほとんど働かない働きアリが2割もいて、こういった無用の
アリがいる集団の方が、いない集団よりも結果的には餌を
効率よく集められることが、研究者によって明らかに
されている。優秀で勤勉なアリは、幼虫の世話など日常の
重要な仕事に忙殺され、効率に固執するあまり、決められた
ルートを往復して餌を運ぶことで精いっぱいになるという。
ところが、一見無用の働かないアリは、あちらこちらを
ウロウロと歩き回るので新たな餌を発見する確立が
高くなるという。
道教の始祖の一人とされる、荘子が説いた”無用の用”とは、
役に立つことは大切だが、無用とされるものこそ、かえって
真の用になる場合もある)と書かれてあった。

これを読んで、自分に置き換えて考えてみると、私の大判の
デスクノートには、黒と赤の文字がビッシリと並んでいる。
所々に余白があったとしても、次々とスケジュールで埋まって
いってしまう。それこそ、文中の”日常の重要な仕事に忙殺され”
といった現状なのだ。

しかし、私はこの状態を嫌ってはいない。それにも増して
忙しさを楽しんでいる節(ふし)さえあるのである。
まるで、これが健康の証であるかのように。又、火中の栗を
拾うというような、精神構造も持ち合わせているので何度も
痛い目にあった。

それ故、私はこのような体験を経て、無用なことには首を
突っ込むまい、無駄なことは省こうと努めてきたような気がする。
それなら、私に無駄なものはないかというと、そんなことはない。

まず、長年に渡る栄養過剰と運動不足により、体に付いた”脂肪
と贅肉”。これとて、屁理屈を捏(こ)ねると、私は人と接する
ことを仕事としているので、ある意味、ストレスの海を漂うトド
のような存在である。
ストレスという海水が、体の芯まで浸透しないように、贅沢な肉
で止めているのである。面の皮の千枚張りと言われると、反論の
余地はないが、これによって私はストレスについて、深く考え
なくてすんでいるし、それを撥ね返している。
ストレスを医学的に解釈すると、”精神的緊張”と訳すが、
理学的には”応力”となるから、この私の説もまんざら間違い
ではないのでは。(自分の不利を正当化している)

それともう一つは、家人から「時間の無い人が、これに半日も
掛けるのは時間の無駄ではないのか」と言われる”サウナ”。
傍(はた)から何と言われようとも、私には絶対に必要不可欠な
ものである。汗をかき、冷水に浸かることを繰り返すことに
より、体が軽くなり(体重不変)美しさを取り戻した気になる。

(錯覚であることは判っている)「アー、気持ちよかった。
明日から頑張るぞ」という気になるのである。
私にとって、これこそ”無用の用”ではないだろうか。

世の中には、無用とされているものは沢山ある。ゴミなどは
その代表格であろうが、これとて、分別すれば資源ゴミに変わ
るし、生ゴミでさえ、手を加えることで、肥料にもなり得るので
ある。無駄を省くことは大事であるが、それがあるからこそ、
必要とされるものも見えてくるのではないだろうか。

車のハンドルに遊びが必要なように、人間にも一見、無用と
思えるボーっとした時間や、趣味など好きなことに費やす自由な
時間もなくてはならないのだ。自由な時間を得ようとすれば、
働かなければならず、働くことにより自由な時間を手に入れる
ことができるのである。

しかして、無用と用のどちらかに傾き過ぎはよくない。要する
に、右に傾けば少し左に移って水平を保つ。この天秤の真ん中に
位置して、バランスを取るという、心の平衡感覚というものが
必要である。これらの行為や感情はどちらにも偏らず、中ほどに
あるのが大切なのである。

以上のようなことを、古代ギリシャの哲学者、アリストテレスの
メソテース(中間)の大切さや、荘子の中庸の美徳が説いている
のである。今回は難しい話になってしまいました。

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2010年01月20日

枯れ行く段柘植(だんつげ)の木

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目が覚めると外はいい天気である。(1月19日のこと)
珍しく昼間の予定がないので、これは洗濯をせねばと思い、
手始めに布団を干そうとベランダに出て庭を眺めると、
目の前の段柘植の木が、茶色になっているのである。
他の植木は青々としているので、何故かと家人に尋ねると
「悲しむと思って言わなかったが、秋頃から枯れ始めていた。
色々やったがもう駄目」との答えが返ってきた。

段々に丸く刈られた姿もよく、庭の木の中ではハンサムで、
好きな木だったのに。
思えば、この庭を造ったのは今から35年ほど前になる
だろうか。
実家の庭を管理していた植木屋の頭領が、娘が家を建てたと
父から聞き込み、やって来たのが始まりだった。

家を建てたばかりでお金がないと渋る私に、ある時払いの催促
なしで良いということで造ってもらった。当初は岩ばかりが
目立ってむこうの景色が見えるような状態だったが、どの木も
見上げるくらい大きくなった。

作庭の際には、頭領はベランダにドッカリと腰をおろし、
作業する人たちに時には大声で怒鳴りながら指示を出していた。
又、お茶出しの時、庭に関して素人の私に色々なことを教えて
くれた。

正面に見える大きな岩は、”拝み石”と言い、枯れ池の手前の
平らな石は”踏み石”と言う。あなた方はまだ若いから鶴亀より
もナナコロビヤオキで”ダルマ石”がよかろうという具合に。
「七転八倒と背中合わせですよ」と茶々をいれて、大笑いした
のを思い出す。

それから、石灯籠にも思い出がある。庭のお金を払い終えた頃で
あっただろうか、八女市から出て来たという、石屋の老夫婦が
一対残っているから是非買ってくれと、動かないのである。
「宿六の仕事が夏枯れで金が無い」と断っても、こちらも、又、
金はいつでもいいから置いていくと言い、勝手にここが良かろう
と設置して、名刺だけ置いて帰って行ったのである。

むこうも、まさか灯篭抱えて夜逃げも無かろうと思ったのかナー。
古き良き時代だったのか、親のお蔭なのか、はたまた、私たちが
信用されていたのか、今もってよく判らない。

これまで、大きな松ノ木が2本枯れて、この段柘植で3本目で
ある。値段の高いの、姿の良いのから枯れて行くと、人は言う。
拝み石の横にあった松ノ木を切り倒した後ろには、百日紅(さる
すべり)がヒョロリと立っている。まるで松ノ木の生まれ変わり
のように。

人間の営みのように、去り行くもの、新たな生命を誕生させる
もの、強い、弱いの個体差もあるのかもしれない。他の木に
先立って逝くのも運命(さだめ)なのであろうか。

長い間、庭の一等席に立ち続けて、私たちの目を楽しませて
くれてありがとう。 そして、さようなら。

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2010年01月15日

中学時代の同窓会(1月13日の日記より)

去年の暮れから,年が明けて10日まで、パソコンの前に
座る暇がないくらい忙しかった。正月休みといえば
31日と元旦だけで、2日、3日は予約が入ってお店に出て、
4日から通常営業で9日〜10日にかけて、泊りがけの
同窓会があった。

本来なら、東京方面でやろうと計画していたが、参加者が
少なく、従来の近場でとなり若松のカンポの宿ということに
なり40名の参加となった。

今回はアメリカ帰りのスミちゃんが久し振りの参加で、
Oくんは46年振りに参加してくれた。男性陣はすぐ判ったと
言ってたが女子連は「あの人 誰?」という具合で、又、
あちらはあちらで女子は全く判らないと言っていた。
お風呂から上がり、宴会が始まると現況よりも、昔話に花が
咲きあちらに、こちらにと話の輪が出来、移動していった。
2時間の予定が1時間以上も延長となり、それでも足りず
部屋に酒とおつまみを持ち込み、深夜まで話と笑い声が続いた。
皆、寝不足の顔で朝食の席に着き、二次会に参加しない人と
別れを惜しみ、再会を約束して別れた。

宿を出てグリーンパークによる予定であったが、寒さ厳しき折
風邪でもひいたら大変とのことで、中止してライジング迎賓館
に直行となり、二次会は男女合わせて21名の参加となった。

京都のヒロちゃんが”モツ鍋”が食べたいとのリクエストがあり、
お店に到着後、私が味付けなどで大忙し。
私がいなかった9日も食事の予約や、26名の団体さんが入り
皆、走り回ったそうである。ママが居ない時の営業は勉強に
なったであろう。

女子連は大いに食べ、男性陣は飲み、語りと11時から夕方5時
まで盛り上がった。キムチやチャンジャなど皆、おいしい
美味しいと喜んでくれた。鞍手方面を送り届け、後片付けを
して家に帰ると8時過ぎであった。

いつものことであるが、幹事のベンキュウさんには大変お世話に
なりました。隅々まで気を配っていただき感謝しております。
又、遠くから駆けつけてくれる友。いつも参加してくれる友。
有り難いナーと思います。

後日談であるが、スミちゃんが23日にアメリカに帰るというので
アッちゃんたちが大宰府に連れて行き、博物館もと寄ってみると
成人式の代休で休館日になっていて、入ることができなかったと
連絡があった。

京都のヒロちゃんは連日、誰かと飲んでたみたいで、スミちゃんの
博物館残念会で一緒に食事をして、その後お店に来てくれた。
次の同窓会は2年後である。それまで私を含めて皆元気でいて
欲しいと願っている。

今日(13日)は久し振りの大雪?で吹雪きの中を帰って、
夜中の3時にこの文を書いている。明日パソコンに打ち込む
つもりだ。


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2010年01月01日

新春のちょっといい話

明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願い申しあげます。

サテ、元旦を迎え気持ちを新たにして、拳に力を
込め、意気込む程のものではなく平凡ですが、
自身と家族の健康を願い、仕事を頑張ろうということを
毎年の目標にしています。

昨年はデフレの影響であろうか、厳しい一年であった。
今年はもっと酷いことになるという予想もある。
荒波に向かって漕ぎ出す小舟のように、方向を見誤らぬ
ようにしなくてはならない。
正月そうそうから厳しい話ばかりでもなんですから、
”チョッといい話”をひとつ。

インターネットで読んだ話。毎日新聞客員編集委員の
岩見隆夫氏のコラムの中での話しを書いてみる。

入社試験を受けた、母ひとり子一人で育った青年が
面接の際、社長から「君は生まれて今までに親の体を
洗ってあげたことがあるかね」と尋ねられ、ビックリする。
「洗ったことがありません」と答えると、「帰ってお母さん
の体のどこでもいいから洗ってあげなさい。その上で明日
改めて面接をする。今日は帰りなさい」。

帰る道すがら、改めて母親を思ってみる。母は反物の行商を
して歩いていた。「そうだ,お袋は足が汚れているだろう。
足なら簡単にすむ」と思い、母が帰って来ると、「今日は
母さんの足を洗ってあげるよ」。
日頃、母親を罵倒している親不孝息子に「自分でするから」
と母は断る。
青年は面接室での出来事を話すと「それじゃしようが
ないわね」と息子が用意したお湯の中に足をつけたのである。

青年はしゃがみこんで母の足に触った。母とて女性である。
細くてきゃしゃな柔らかい足を想像していたが、石のように
硬くゴツゴツしていた。
母の苦労を思い、青年の胸に熱いものがこみあげてきた。
母親の足を握り締めたまま、おいおい声をあげて男泣きに
泣いたという。
翌日、青年は社長に「私は大学まで出してもらいましたが、
誰一人親の恩について教えてくれる人はいませんでした。
ありがとうございました。
生涯、母を大事にして生きていこうと思います」。

この話を読んで、親は子を育てるなかで、生き様を示すだけ
で語りはしない。
それをどう受け止めるかは子供の側の問題ではないだろうか
と考えた。
満ち足りた中で”足るを知る”ことを教えるのは難しい
ことかもしれない。
”親の恩”という言葉は親から口には出せないものではあろう。
”人の恩”を教えるのであれば話は別であろうが。

不孝にも、私も両親の体を洗ってあげたことはない。
肩をもんだり叩いてあげたことはあっても。
やってあげようにも、もうこの世にはいないのだ。

”孝行したい時には親は無し”である。 この言葉
胸に沁みます。

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2009年12月21日

はじめての雪

目が覚めると外は雪が舞っていた。
ついにきたかという思いである。

今年もあと2週間足らず、今週は特に公私共に
忙しく、早朝より出掛けることが多かった。
用事が山積みなのである。あれも、これもしなくてはと
気は焦るが、何せ時間が限られているから遅々として
事が進まない。”初雪や二の字二の字の下駄のあと”
などと、悠長なことは言っておれない心境なのだ。

おそらく、今日、明日が忘年会のピークであろう。
そこに初雪である。雨もいやだが、雪はなおさらだ。
寒いし第一お客様が出てこない。飲み屋泣かせの雪と
ならぬよう、夜には止んで欲しいものだ。

子供の頃には、雪ダルマを作ったり、雪投げ合戦をしたり
、クリスマスには雪が降ってサンタさんがプレゼントを
持って来てくれる、などと楽しい思い出ばかりなのに、
大人になるにつれて、雪に関していい思い出がなくなって
いくのはどうしてだろう。

北海道、富良野に住む作家、倉本聰氏の本を読むと、
北国の冬の凄まじさが書いてある。零下35度になると、
管という管はみな凍ってしまうという。移り住んだ最初の
冬は、都会の人間では想像のつかない体験の連続で、
雪の重みと木の乾燥で、家がミシミシと鳴いて一晩中
眠れなかったそうである。

それから比べると、九州の雪など子供だましと北国の人は
思うかもしれない。北海道からこちらに移り住んだ人が
「家の中はこちらの方が寒い」と言っていた。
暖房設備の在り方が違うのであろう。

日本には四季があるが、それぞれの地域に特色があり、
地形が南北に長いため、雪の降らない沖縄から、長い冬の
北海道まで、それぞれに人々の暮らしがある。
暖かい地域の人はどちらかというと、のんびりしている
ように感じる。沖縄時間というのがあって、集合時間を
決めていても1時間遅れなど普通らしい。とても考え
られないことだ。

寒い所は冬の間、家族と離れて季節労働者として出稼ぎに
いく人も多い。
半年間、家族のために寂しさに堪えて黙々と働くのだろう。
北国のひとは寡黙で辛抱強いイメージが私にはある。
しかし、こう不況が続くと仕事に就くことが出来るので
あろうかと気になる。

これから寒い3ヶ月の間、風邪などひかないように健康に
留意して頑張っていかなければならない。去年の雪の
ブログはアダモの”雪が降る”を書いた。
雪を見ながら思い出した歌は、タイトルは忘れたが、
”雪がふってきた、ほんの少しだけれど、私の胸の中に、
積もりそうな雪だった・・・”

雪のイメージはやっぱり寂しいことが多い。

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2009年12月15日

冬の雨

今日は朝から一日中、細かい雨が降っている。
庭のナンテンも赤い実を揺らしながら、冷たい
雨に打たれ震えている。

私はどちらかというと、雨は好きではない。
雨が降って欲しいと思ったのは子供の頃、
新しい長靴や傘を買って貰った時くらいな
ものだろう。

家人も雨には辛い思い出があるという。
子供のとき雨の中、新聞配達をしていて新聞が
濡れたと苦情をよく言われたらしい。
だから「俺は新聞が濡れても文句は言わん」。
その苦労を体験しているからこその台詞であろう。
今時の新聞はキチンとビニール袋に入っているから、
その様な苦情はないだろうが、一部ずつ袋詰めに
する手間は大変であろう。

若い頃にこんな話を聞いたことがある。
ある人が子供に雨の中、外で働く人を見せ、その後に
銀行の中に連れて行って、屋内で働く人を見せて
「お前はどちらを選ぶか」と言ったという。
大人の世界では、どちらにも見えない苦労はあるのだが、
子供の目には見た目、辛くないほうを選択するであろう。
「それなら勉強して一流大学を出てホワイトカラー
になれ」と。

この話は正論であろう。しかしこの話に私は少々違和感を
覚えた。私の実家は土建屋であったから、雨降りの日には
父が雨ガッパに長靴で働いていたのを見て育ったから、
このようなホワイトカラーとブルーカラーを比較する
ような考え方はしない。

私自身も長年水商売をやってきて、現実には職業の貴賎や
差別はあろうが、自分の仕事には誇りをもってやってきた。
「親父は土方、オカンは飲み屋。俺がグレたら教育評論家は
こう言うだろう。それは家庭環境が悪いからです。
そのように言われたくないから俺は不良にならんかった」と、
次男が言ったことがある。

こんなこともあった。長男が中学3年のときに、家には4チャン
ネルのステレオがあるのに、24万円もするコンポタイプの
ステレオを買って欲しいと言ったことがある。
「買ってやってもいいが、そのお金をどんな思いをして稼ぐ
のか見てろ」と、家人は長男を冬休みに1週間ほど現場に
連れて行き、ヘルメットを被せ、防寒服を着せて現場の隅に
立たせて、父親の働く姿を見せたことがあった。雨の日や、
吹雪く日もあったから長男にとっては辛い体験だったに
違いない。

職業がなんであれ、多くを語らずとも、家族のために
一生懸命に働く姿を見せることは、教育の一環だと思って
いるのだが。

兄、姉、弟、3人の正月のお年玉と、それまでに貯めていた
お金と、報酬として貰ったものを足して、子供たちだけで
そのステレオを買った。
そのステレオは今でもチャンとしていて、音楽を
楽しませてくれている。

雨の日に外で働く人に比べれば、私の仕事は屋内だから、
寒い思いはしない。しかし、夜の雨は客足がパッタリと
途絶えてしまうから営業に響く。
私にとっては涙雨なのである。金、土曜などに降られると、
稼ぎ時であるからなおさら恨めしい。せめて、昼間で止んで
欲しいとか、日曜に降ればいいのにと、勝手なことを思って
いる。雨が降らなくて困る人も居るというのに。

「今夜はお茶挽きか!」と、思いながら出勤の仕度
(したく)をしています。
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2009年12月07日

師走になって

早いものでもう12月になってしまった。
振り返ってみると、1年というものは暑いか寒い時期
しか、ないように感じる。
春、秋の過ごしやすい季節はいつの間にか通り過ぎて
行くからである。

幸いなことに、不注意による打ち身などあったが、病気
ひとつせずに今年も暮れようとしている。
周りの人の話を聞くと、病院知らずは奇跡に近いらしい。
高齢者の3原則に”風邪をひかない、転ばない、大食いを
しない”と、読んだことがある。

風邪については季節柄、新型インフルエンザが流行して
いるので、うがいや手洗いなど注意はしているが、
私には安全意識が希薄なせいか、時々転んだり
躓(つまず)いたりするので、この点は要注意である。
大食いについてはアウトである。職業柄、働く時間帯が
人とは違うので午後3時頃に、朝昼兼用の食事となり、
仕事を終え、帰って来るのが早くて深夜の3時近くになる。
忙しい時など食べる暇がないので、夜中の食事となる。
これも腹八分目でやめておけばよいものを、腹いっぱい
食べるのである。「だからデブのまま」と笑われるが
食べ物が美味しいのである。

自分では、「だから健康なのだ」とあまり意に介さないのだが、
この点は改善の余地ありだろう。唯、最近はアルコールを
控えるようにはしている。

転じて、世間に目を向けると、デフレ、円高と懐が凍りつく
ようなことになっている。物の値段が下がるのは結構なことだ
と思っていたが、企業にとっては業績が悪化し、それが働く人
に跳ね返って、給料やボーナスに響くという。
故にサイフのヒモが固くなり、それが我々の商売に影響を
及ぼす。まさに負の連鎖である。バブルの崩壊以降、小泉内閣の
構造改革を経て、経済が右肩下がりとなり、国民がこれでは
駄目だと考え先の衆議院選挙で民主党を支持したのであろう。

しかし、現実にはマニフェストを全て実行しようとすると、
予算は膨らみ、財源が不足するため、国債を発行せざるを
得なくなり国の借金は増える。あげくには、増税となってしまう
のだろう。
タバコの値段を700円や1000円にしようという話まである。
これなどは、タクシー料金の値上げと同じで、上げれば利用客が
減り、売り上げは伸びず、と同じことになりはしないか。

歌の文句じゃないけれど、”どこまで続く泥濘(ぬかるみ)ぞ”
である。
長期の天気予報によると、今年の冬は暖冬というが、冷たい風が
懐を吹き抜けるような、師走になりそうである。

景気の良い話はどこを見渡してもないけれども、クヨクヨ悩ん
でも仕方がない。今がドン底と思えばこれ以上は悪くは
なるまい、とのポジティブな考え方をするように努めて、
残り1ヶ月を切った今、1年の総決算として、”終わり良け
れば全て良し”となるように従業員一同、その決意を新たに
して仕事に励む覚悟でいます。

働けどはたらけど、我が暮らし楽にならざり、じっと手を見る



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2009年11月30日

季節はずれのカマキリさん

kamakiri.jpg

つい、1ヶ月程前にコンクリートの門柱の上に、お腹の
大きなカマキリを見付けた。こんな季節にカマキリを
見るのは珍しいので、「何で今頃?」と家人に尋ねると
「普通は寒くなる前にタマゴを産み付けて死んでしまう」
と言う。「可哀想だからタマゴを産めそうな所に移してあげて」
と、柘植(つげ)の木の上に引越ししてあげることにした。
(私は自分では触ることができないので家人に頼み)

それから、そのことはスッカリ忘れてしまっていたのだが、
2〜3日前の雨の降る寒い日に、庭の飛び石の上で再び
そのカマキリを見たのであった。まだ、お腹は大きい
ままだったのでタマゴを産んでいないのだろう。心なしか
、例のファイティングポーズも弱々しく、羽も萎(しお)れた
感じで疲れているようにみえた。

この間、我が家の狭い庭の中を彷徨(さまよ)っていた
のだろうか。
タマゴを産み付ける場所を見付けることが出来なかったの
だろうか。
この寒い中、何か食べ物はあったのかとチョッピリ哀れみを
感じた。

生物(植物も含め)の営みの基本は”種の保存”であろう。
弱い者は数多く産み、強い者は少なく産んで育てる。
北海道のシャケの場合もそうだ。産卵のためはるばる海を
わたり、故郷の川を必死に遡上(そじょう)して川底にたくさん
のタマゴを産み、そこで力尽きて自分の子孫をみることなく
死んでいくのである。

動物の場合、外敵から身を守るため生まれてすぐに立ち上がる
ことができる。歩けるようになるまで1年以上かかるのは人間
だけである。
又、自分からは動くことのできない植物の場合、タンポポの
ように風まかせの気球のように吹かれていって別の場所に花を
咲かせるもの。
ヘリコプターのように種子に羽を付けて飛んでいくもの。
あるいはミツバチを媒介として受粉するイチゴなど。鳥に食べら
れた木の実はそのフンの中から芽を出す。我が家のナンテン、
万両の木、サルスベリなどは庭を造った時には植えなかった
から、この類(たぐい)であろう。
こういった生き残るための知恵を誰が考え出し、教え伝えたの
だろうか。

こうして見ると、なんと自然界の掟とは厳しいものであろうか。
ルールなき弱肉強食の世界では、動けなくなったり、弱まって
しまうことは即、死を意味する。幸いにして人間社会では、
社会保障制度などによってなんとか生きてはいける。しかし、
動物のルールで考えてみると親は子を育てても、子は親の
面倒はみない。となると我々の老後も子供に頼ることなく、
自分の面倒は自分でみるのが本当かもしれない。

親の介護疲れから子供が自殺したり、親を殺したりという
ニュースを聞いたりするたびに、動けなくなった親が長生きする
のは罪なのであろうかと考え込んでしまう。

民主党のマニフェストには、子供の分に関しては金をだす動きは
あっても高齢者のために何かをという動きは見えてこない。
”老兵は黙して語らず迷惑の掛からないうちにただ去るのみ”と
いうことか。

季節はずれのカマキリさん。お前さんも少し長生きしすぎたの
かもしれないネ。
せめてうちの庭のどこかに、タマゴを産み付けて天寿を全う
しなさいナ。
そうすれば、来年の春にはキミの子供たちが大勢生まれてくると
思うョ。決していじめたりしないから安心して!!。

キーを打つ手を休めて庭に目をやると、紋白蝶が飛んでいた。
季節はずれはキミだけではなかったョ。 鎌切さん。
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2009年11月23日

シンデレラコンプレックス(コレット・ダウリング著)の読後感想

私は寝付きが悪いため、ナイトキャップ(寝酒)がわりに
本棚から適当に抜いた本を2〜3冊枕元に置いている。
様々なジャンルの本をランダムに読むのである。

その中に、このタイトルの本はあった。 殆どが、以前
読んだ本なので、タイトルなり内容なりを覚えているのだが、
この本にはそれがない。自分で買い求めたのかどうかの
記憶さえもない。

タイトルの"シンデレラコンプレックス”とは(他者によって
守られていたいという心理的依存状態を言う)と書いて
ある。読み進めてみると、女性の弱音、泣き言の
オンパレードである。

あまりに、自分の感性とはかけ離れているので、いつ頃
書かれたものかと末尾を見ると、1982年とあった。
これからすると、アメリカにウーマンリブ(女性解放運動)が
始まったのは1970年代であったから、この時代と並行して
書かれたものであろう。

サブタイトルに"自立に戸惑う女の告白”とあるように
飛ぼうとして翔べない女性のためのバイブル的な本の
ようである。ともあれ、この本の目次を並べてみると、
”翔ぶのが怖い”、”女らしさに背をむけられない”、
”女の甘え、女は無力”、”夫と子供がすべて”、”自立と
依存のはざまで苦しむ”、とあるように、女とはこれ程
弱くて駄目であるということを、これでもかと言わんばかりに
書き並べているのである。

アメリカ女性の、このような生き方では駄目だということで
女性解放運動が興ったのであろうが、解放や自由を手に
入れようとすると、そこには当然、自立や責任というものが
付随してくる。男性と同等の権利を手に入れようとすれば、
義務が生じる。

アメリカの場合、徴兵制度による兵役の義務があり、
ウーマンリブの女闘士はこれをどのように解釈するので
あろうか。義務を放棄して自分たちに都合の良い権利だけを
主張するなら、これこそ女の甘えでしかないのではないか。

翻(ひるがえ)って自分のことを考えてみると、27年前の私は
焼肉屋の女主人で、仕事バリバリ、学校のPTA活動、子供の
剣道の後援会活動などと、気力は充実し、体力にまかせて
怖いものなしの、生き方をしていた時期であった。
ただ、振り返って思うに、自分の力だけで空を飛んでいたと
錯覚し、成したことは全部、自分の手柄だと思い込んで
いた部分もある。この分は私の人生において負の部分であると
深く反省している。

この本の内容と、私の生き方考え方があまりにもかけ離れて
いるため、おそらく、当時は途中で読むのをやめたのかも
しれない。だから内容に記憶が無かったのであろう。
9割がた納得せずに読み終えたが、最後の章に、”自由や
自立とは己の弱さを知り、自分の中から依存心をなくし
努力して心の中に育てていくもの。それがしなやかな、
したたかな生き方に繋がる”と結んであった。
これでいくらか救われる思いであった。

しかし、日米の歴史、生き方、考え方の違いを考慮したとしても
、この本の内容に私はどうしても違和感を覚えるのである。
女はそれほど弱い生き物ではない。子孫を残すため子をなし
身の守り方と、餌の取り方を身に付けさせ世に送り出すのである。
子育て中の女は髪振り乱して奮闘しているのである。
女、妻、母の序列の在り方によって、生き様も変わってくる
のではないだろうか。強くもなり優しくもなる。それが女だ。

もし、男の方がこの本を読まれたなら、どう感じるのか話を
伺ってみたいものである。



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2009年11月17日

半世紀にわたる我が友たち

20091117up.JPG

私には小、中学校以来50年にわたって、仲良く付き合っ
いる気の置けない友人がいる。
同じ地域に住んでいる人は勿論のこと、嫁して他県に住んで
いる友、仕事で関西、関東方面に移り住んでいる友、遠くは
アメリカまで。

帰って来るたびに友人達に連絡を取り合い、集まって酒を
酌み交わしながら、近況や古い話に花を咲かせるのである。
又、中学のときの同窓会活動も活発で、事ある毎に旅行を
企画したりして旧交を温めている。

つい最近でも同級生と登山を楽しんだ。この山登りは私が
家人といつも登っている鷹取山へ、一緒に登ろうと
アッちゃん(女性)に電話を掛けたのであった。
一緒にベンキュウさん(大男)とM男氏(元ポリスマン)
にも声をかけて5人で登ることになった。

当日、空は晴れて登山日和。前半の薙野(なぎの)の休憩所
までは道もなだらかで、健脚(?)にもまだ余裕があり、
おしゃべりを楽しむ中、”趣味”が話題となった。

まずは元気溌溂の少々水気が不足しているアッちゃん。
多趣味な人で、手のこんだ美味しい”料理”、広い庭での
”園芸”、今は休止しているという”ステンドグラス”、

現在進行形の”パッチワーク”はプロ並みで、工房(趣味の
教室、作業場、作品の展示)まで建てて没頭するほど
頑張っている。どれも趣味の範囲でとどめているところが
彼女の素晴らしい点である。

お次は、形(なり)は大型だが、全てにおいてオットリ
(喋りや仕草)しているベンキュウさん。
製鉄所をリタイヤし、現在は”畑仕事”に精を出している
という。唯、時期の作業に時間と手間が掛かることから、
段々しんどくなってきているという。別面、同窓会の幹事を
一手に引き受けていて、その活躍にはいつも感謝し敬服して
いる。頼りになるオッサンである。

殿(しんがり)は、とても元警察官とは思えない優しい
笑顔のM男氏。下手(ヘタではなくしもてと読む)な”ゴルフ”
と以外なことに”ピアノ”を習っているという。本人曰く、
そのうちショパンのノクターンでも弾いて聞かせると言うが、
いつのことにあいなりましょうか。

オットリ喋るベンキュウさんが何か言おうとすると、
アッちゃんが鉄砲玉のように言葉を浴びせてくるのに茶々を
いれて、益々、纏(まとま)らなくしてしまうのがこの人
である。

流石(さすが)に第2ステージの急坂の岩場に差し掛かると
言葉数も少なくなり、愛犬ハリーの散歩で脚を鍛えていると
いうアッちゃんが遅れだした。2人のナイト(夜ではなく騎士)
にエスコートを任せて家人と先に頂上へ。下界を眺めながらの
弁当はいつもにも増して美味しくお互いのオカズをつまんだり
してランチタイムを楽しんだ。

ベンキュウさんとM男氏の、別々のコンビニで買ってきた
弁当が全く同じものであったのには一同大笑い。必要以上に
気の合う2人。・・・・何か人に知られたくない秘密でもある
のでは? と疑いたくなる。次回は英彦山にチャレンジ
しようと話しながら山頂を後にした。

この3人の他にも、リタイヤ組の中にあって、数少ない
現役の、付き合いの良い気さくな性格の”コバやん”。
野良仕事が板に付いてる”元公民館長”。中国語を習っ
ている”K氏”。

体育祭になると法螺貝を吹きまくる”教頭先生”。
皆で飲んでいて夜中に電話を掛けられて、「オレも行きテー」
と嘆いている京都の”ヒロちゃん”。笑いすぎてチビリそう
になる”キリギリスのオバハン”。笑いジワを気にする
あまり、シワがお腹に引越ししてしまったと、笑い転げる
アメリカ帰りの元美少女”セイコちゃん”。我が家の
台所事情を知ってか、自分チでは食べきれないからと、
手造りのケーキから干物まで食料支援をしてくれる
”Yさん”。等など、もっともっと紹介したいのだけど、
なにせ紙面が足りない。

この歳になると子育ても終わりジジババとなり、連れ合い
に先立たれたりと、人生悲喜こもごも、今日この頃である。
来年の1月には北九州で同窓会がある。俎上(そじょう)に
乗せてコキおろした友との再会を今から首を長くして
楽しみに待っている。





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2009年11月12日

久し振りのブログ更新です

6月以来の久し振りのブログの更新です。
この5ヶ月の間に公私ともに様々な問題が生じました。
誰に相談も悩みを打ち明けることもなく、一人で対処して
きました。
日々の仕事と時間に追われながら、一つ一つの問題を
解決していき,ようやく背中の荷物が少し軽くなったような
気がします。

今の心境を自分なりに分析してみると、美空ひばりの
”川の流れのように”の2番の歌詞の”生きることは旅する
こと、終わりの無いこの道,愛する人,そばにつれて
夢探しながら、雨に降られてぬかるんだ道でも、いつかは
晴れる日が来るから”のこの詩をかみ締めながら、毎日を
頑張っているように思います。

私は、外見は辛くても苦しくても、それを表に出さない強い
女と周りの人に思われているようですが、私とて、周りに
いる女性と何ら変わりは無く、強い部分も弱い部分も持ち
合わせております。
ただ、自分の弱点をオブラートに包み、見えにくくする
よう努力しているとは思いますが、それでも今日の仕事を
明日以降に延ばすし、アナログ故にデジタルに近づこうと
しないし等など、ウィークポイントをあげると片手では
足りない位です。

ブログも正にその範疇(はんちゅう)にあり、日常のやる
べきことの優先順位からすると,かなり後方にあり、今日が
明日になり、又、明後日となってしまうのです。
今回の長期離脱は色々なことで、心が疲れていて気持ちに
余裕がなく,とてもブログ(文章を考えること)を書く
気力が起きなかったのです。
でも時間の経過と共に問題は良い方向に向かいつつあり、
山登りも再開したし,音楽も楽しめるようになりました。

「せっかく始めたブログをやめるのは勿体無い」との、
武内先生(パソコンの先生)の励ましもあり、また始めよう、
書いてみようと思えるようになりました。
もし、拙(つたな)い私の文章をお読みの方がおられましたら、
短くても結構ですのでコメントを戴きたいのです。それを私の
励みにしたいのです。

再開のブログが言い訳と泣き言の羅列になりましたが、
次回からは重量超過のため飛びたくても空を飛べない
スーパーマンとなって、元気にパソコンも含め諸事に対処
していこうと思っております。

posted by ochiyo at 06:56| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記

2009年06月08日

私が最近、目にした事柄

長嶋千恵、河村かおり、朝日俊彦、この3人に共通しているもの
は何か。癌という病気である。たまたまおなじ時期に目にしたの
である。

長嶋千恵さん(24歳)。末期の乳がんで余命1ヶ月と宣告
された。彼女は父親や恋人から、献身的な看病を受けながら病気
と闘う。「ウェイディングドレスを着ること」という彼女の夢を
かなえるため、友人たちが恋人との模擬結婚式を開く。その
1ヶ月後に亡くなった。そう、映画「余命1ヶ月の花嫁」の
モデルとなった本人なのだ。映画の宣伝と、以前テレビの番組で
知った。

河村かおりさん(38歳)。伝説のロックシンガー。日本人の
父親とロシヤ人の母との間に生まれ、いじめにあいながら育つ。
1998年、17歳で「ZOO」でシングルデビゥー。ヒット曲に
”僕達の国境、翼をください、神様が降りてくる夜”などがある。
結婚、出産、離婚を経験し乳がんにかかり、女の命である左の
乳房の摘出手術を受ける。4年後にリンパ節、骨、肺の3箇所に
転移、抗がん剤の治療を受けながらロックシンガーとして、8歳
の娘の母として、又、アパレルブランド「RoyalPussy]をたち
あげ、斬新なアイテムを展開して頑張っている。”乳がんの早期
発見啓発運動の「ピンクリボン」”にも本格的に参加し「年に
1度はマンモグラフィー検査を受けて欲しい」と訴える。インタ
ーネットで彼女のことを知った。

朝日俊彦さん(62歳)。泌尿器科の医師。20数年前から
がんの告知に取り組み、「終末期をどう生きるか」を患者さんに
指導してきた。ある日検査で末期の胃がんが見付かり肝臓への
転移もみられた。手術が不可能なため抗がん剤治療を行い
ながら、自身のクリニックで患者さんと向き合っている。
病になり、捨てるべきものは何かを考え、のんびりとストレスを
和らげる時間も貴重、みんなのお陰で自分は生かされてきたと
気づく。そのことで周りの人に感謝の言葉が出るようになったと
語る。自身のがんと闘いながら同病の患者さんにとって、”病気
を治すばかりではない治療。

みんながより幸せになれるような治療”とは何かと考えながら
医療に携わっている。雑誌ラジオ深夜便6月号の”瑠璃光寺
五重塔に魅せられて”の後の記事、”心のたび”で読んだもの
である。元気な89歳の作家、久木綾子さんの記事を読んだ後
だけにショックであった。

実を言うと、このブログは先月末には出来上がっていた。しかし、
テーマが”癌”のことなのでブログにだすのが気が重く、ためら
われていた。ゴルフ雑誌の中にフィルミケルソン選手の愛妻
エミー婦人の乳がんのことや、日本の女子プロ選手がマンモ
グラフィー検診車で乳がん検査を受けた記事を見た。今月の2日
にはロックシンガーの忌野清志郎さんが、がん性リンパ管症で
亡くなった。

偶然ではあるがあまりにも”癌”の文字が目につくのである。
病気は早期発見、早期治療が成功率をたかめると言われて
いる。現在、健康体の私であってもこの先、病に掛からないと
いう保障はどこにもない。それどころか、私の生活環境は病気
になる条件が揃っているのである。健康に留意するのは勿論の
こと、定期健診やがんの検診にも行かなければと改めて考えて
いる。

私が目にした事柄は”天啓”ではないかと考えたのです。健康で
有るが故にありがたみをかみ締め、一日一日を大切に生きよと、
教えられたような気持ちになりました。テーマの軽重に拘らず
今の私の気持ちを正直に文字に表すことが、自身に対しての
戒めにもなるのではないかと思いブログにあげることにしました。
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2009年06月03日

そぼ降る雨に濡れるアジサイ(紫陽花)

ajisai.jpg
今日は梅雨どきのような雨がふっている。

座敷のガラス戸越しに見る、アジサイの花は雨に濡れて生き
生きとしている。
明るい太陽の下で見るより、雨のほうが似合う花である。
濃い紫色の大人の花の中に、少女のようにまだ色づかない
ピンクの花も同居して咲いている。このアジサイは10数年前に、
鉢植えのものを地植えしたものが、大きく育ったのである。

日本には10種類ほどが自生しているそうで、もともとは
「集真藍(あずさあい)」と呼ばれていたとされている。”あず”
は集まる、”さ”は真、”あい”は藍(青色)の意で、真の藍色が
集まっている花といった意味合いらしい。原種が青紫色とされて
いるところからきているのかも。他に「味狭藍」、「安治佐為」
と色々あり、現在使われている「紫陽花」の語源としては、
アジサイに何か漢名をあてはめる必要にせまられた時、唐の詩人
・白居易が別の花(ライラックか?)に名づけたものを平安時代の
学者・源順がこの漢字をアジサイの花にあてはめたといわれて
いる。以来アジサイは「紫陽花」となった。お陰でアジサイは
中国渡来の植物と誤解されているという。
中国ではアジサイのことを、「八仙花」又は「繍球花(しゅう
きゅうか)」と呼んでいる。

アジサイの花の色が青系と赤系とに異なるのは、土壌のpH
(酸性、アルカリ性)によるもので、酸性が強いと青みがかり、
アルカリ性が強いと赤みがかる。
又、花の色は土によるものではなく、遺伝的に決っているという
説もある。古来よりアジサイの花を乾して煎じて飲むと解熱作用
があるといわれ、葉は瘧(おこり)に効くといわれている。

鎖国時代に長崎にオランダ人と偽って来日した、医師シーボルト
(ドイツ人)は滞在中の妻”お滝”の名をとって”おたくさ”と
つけ、祖国ドイツに紹介したのは有名な話。

アジサイの花言葉としては、”移り気、高慢、辛抱強い愛情、
元気な女性、あなたは美しいが冷淡だ、無情、自慢家、変節、
あなたは冷たい”などがありますが、どれも私が感じるものとは
少し違うようで、私が思うに、アジサイは咲き始めてから
だんだんと花の色を変えるところから、”移り気”な花と呼ばれ
ていますが、これは心変わりではなく美しくなるための試行錯誤
ではないかと考えるのです。
花たちは日々、美しくなるために色を変え、それでも満足せずに
また色を変えていくのです。咲ききった後に花びらを散らしも
せず、枯れて色を失ってしまうまで、じっと何かに耐えている
ようでそんな姿が少女から娘に、娘から女に、女から母に、
母から白髪のおばあさんにと、一つの時代を生きる女の姿に
重ねて見るのです。

雨垂れの音を耳にしながら、文を考えている私の頭の中には”
雨蛙おぬしもペンキ塗り立てか”(芥川龍之介)とか、歌手井上
ひろしの”雨に咲く花”とか、窓から見える隣の畑の黄色に
色づいた琵琶の実が目に映ったり、私の他人評の中で、いい意味?
での”返り咲き(狂い咲き?)という言葉が思い浮かんできたり
して、まるでアジサイとは縁のない台詞が次々と登場するので
文章という小舟が少しも前に進んでいかないのです。

そぼ降る雨に、濡れるにまかせるアジサイの花を見ていると、
「人の心をごまかすように、七つのおたくさ紫陽花はオランダ
さんの置き忘れ・・・」と長崎を舞台に、お滝さんをうたった
曲が雨の中、傘を差して写真を撮る私の瞑想の中に、メロディを
奏でているのです。

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2009年05月26日

”瑠璃光寺五重塔に魅せられて”を読んで

この事を知ったのはパソコンの師である武内先生からのメールで
あった。

夜中にNHKの”ラジオ深夜便”という放送を聴きながら、
お仕事をされていて、対談の内容がとても素晴らしいもので
あったと 、お知らせ下さったからである。
それが、3月のはじめのことであった。同名の雑誌に載っている
とのことで、早速 本屋に走ったが、6月号(5月18日発売)
に出るということで2ヶ月半も待っていたのである。
19日に買い求め読んでみた。

作者は久木綾子さん(89歳)といい、写真を見ると上品な方で
あった。この塔の美しさに心を打たれ、塔を建てた名も無き
人々の人生を小説にしようと考え、取材と執筆に18年の歳月を
かけ、昨秋に「見残しの塔・・周防国五重塔縁起」を出版され
ました。

この本を書くきっかけになったのは、20年前にご主人を亡く
され、亡き夫の生まれ育った山口に友人と旅して、香山公園の
中に立つ国宝、瑠璃光寺五重塔と対面するのである。これまでに
経験したことのない感動を覚え、目にしたものから次々と連想
され、小説の構想が練られていったのです。

70歳の頃から14年をかけ、勉強と取材をされ、最初に日本史
の論文の書き方を学び、歴史の講座に通ったり、宮大工の
専門用語に関しては、五重塔の解体修理工事を見学したり、
宮大工の方に指導を仰ぎ、実技と理論を学んだのです。

登場人物は、自身や亡き夫、姑などを思い描き、又、場所や
道のりは自身に関連した所が用いられています。それも、自分の
足で歩いて書かれているのです。その後、取材から完成まで
4年の歳月を要しています。

この作者の凄いところは、勉強家であることは勿論のこと、
着眼点の素晴らしさ、それに年齢を感じさせない行動力と
集中力にあると思います。山口には取材で35回も足を運び、
締め切り前の3,4日で一気に書き上げ、ほとんど、徹夜の
こともあったそうです。

最後のところで、わが意を得たりと思ったのは、”80歳を
過ぎてシルバーのためのパソコン教室に通い、係りの人から
「失礼ですがお歳は?」と聞かれ「あの、お聞きにならない
ほうがよろしいんじゃないですか。教えたくなくなると思います
から」と答えると「ではうかがいません」と書類に「70歳」と
書いたので、厚かましくも訂正しないまま卒業いたしました”。
という件(くだり)がとても面白く、可笑しくて”八十の手習い”
もありかと、私の拙いパソコンも頑張らなければと改めて思い
ました。

米寿を過ぎたご高齢でありながら、次の作品に取り掛かっている
のだそうです。私がこの作者の年齢に達するまでには四半世紀
あまり残されています。この精力的に行動される生き方を
見習って、今日から自分の生き様を再点検してみようと思って
います。
その手始めに是非、「見残しの塔・・」を呼んでみたいと思うと
同時に、瑠璃光寺五重塔を見に行きたいと思っています。
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2009年05月20日

平穏無事について

何でもない時にフッとこの言葉が浮かんだ。
電子辞書で意味を調べてみると、”平穏”は「変わったことも
起こらずおだやかなこと」。”無事”は「取り立てて 言う
ほどの変わったことのないこと」とある。どちらも同じ意味の
言葉で、それを二つ重ねて使うということは、日々、恙無
(つつがな)く暮らしている様を表しているのだろう。

しかし、人生においてこのような生活というのは有り得ないの
では無いかと思う。いっしゅん、一瞬のそれはあったにしても、
その他の多くの時間は激動とまでは言わないにしても、何らか
の問題が起きているはずである。仕事にしても、自身を含めた
人間関係など頭を悩ますことは多くある。

すると、この言葉を感じるのはどんな時かを考えてみると、
一日の仕事を終え帰宅して風呂に入り、家族と一緒に食事をし、
就寝する時に「今日も一日何事も無く・・・」ということを
繰り返すことを指しているのであろうか。それとも、通り過ぎた
人生を振り返ってみて、幸せと不幸の度合いを比べて幸せの
ほうが大きい場合にこの言葉を使うのだろうか。

人は百人百様の人生を送っている。現在進行形で幸せを感じる
人もあろうし、不幸になってはじめて幸せを認識する人もいる
はずである。人は平穏無事を願いながら生きていくのである。
願いは叶ったりそうでない場合もある。

とすれば、この言葉を考える私はある意味、激流に押し流されて
行く小さな木の葉かもしれない。流されて行く事は自分自身の
運命だから、なんとか沈まないように今を頑張っていなければ
ならないのだ。岩にぶつかりながらも、流木にしがみ付いてでも、
流れに身を任せる。そのうちに流れも緩やかになり、日の光を
一身に浴び、両岸の景色が眺められるようになった時が、
平穏という平和な状態の中に置かれていることになるのか。

しかし、流されて行くという時間の経過が、確実に人生の終焉
(しゅうえん)が迫って来ていることを思い知ることになる。
河口はすぐそこにあり、海まで流されて藻屑となってしまうか、
岸に打ち上げられて枯れ果ててしまうまでの、私に与えられた
残り少ない時間を、突発的なことがない限り人生という荒波に
向かって知力、気力、体力の全てを駆使して生きていくことに
なるのであろう。

私にとっての”平穏無事”は自身は勿論のこと、家族にたいして
の願望であり「人間万事塞翁が馬」と悟りをひらける心境に至る
ような人生でありたいと願っている。
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2009年05月06日

私のゴールデンウィーク

今年のゴールデンウィークはお店を4連休することにした。
長いことこの仕事をしてきて、4連休は初めてではないだろうか。
何をやるという計画はたててない。ニュースで高速道路渋滞
35Kmを見ると出て行く気になれない。海外旅行も新型
インフルエンザが流行の兆しを見せていて心配である。
何年か前に中国の上海を予定していて、鶏インフルエンザの
ため直前にキャンセルしたことがあった。そんなこんなで、
日頃忙しく働いてきた体を休ませることにしたのである。

3日は昼から友人の日本舞踊の”春のおさらい会”に出掛けた。
水巻中央公民館の大ホールで、毎年1回開かれているもので、
お弟子さん達の日頃の練習の成果を披露する会である。
友人も名取から師範になって張り切っていた。知り合いも何人か
出ていたが、そのうちの1人は日頃の姿からは想像出来ないほど
の踊りを見せていた。人に見せていないところでの努力の積み
重ねが、重要であるということを改めて感じさせられるもので
あった。

4日は半年ぶりに山登りを予定していたが、生憎の雨のため
断念。日頃溜まった書類の整理やストレッチなどして過ごした。

5日は昼からサウナ行きである。終店までユックリ浸かって体を
リフレッシュさせ、夜は鍋を突いて栄養を補給し、明日の登山に
備えた。

6日、連休の最終日は去年の12月以来の鷹取山行きである。
朝から弁当を用意して10時過ぎに出掛けた。
いつもの鳥野神社の駐車場より歩き始める。木々の新緑が目に
眩しい。日差しは強いが風はまだ冷たく心地よい。いつも感じる
ことは山登りはきついということ。これだけは何回登っても
慣れることが無いので不思議である。”上野越え”のルート
案内板に寒暖計が取り付けてあり、見ると気温13度。下界とは
10度近くも差がある。鷹取山頂まであと15分。
登り切った爽快感もまたいつもの感覚で、流れる雲と少し霞んだ
下界を見ながらの弁当もまた、しかりである。下山しながらの
思いも幾つまでこうやって元気で山登りが出来るのだろうかと
いつも考える。

4日間を振り返って見ると、子供達が小さい頃とは随分趣きの
違ったゴールデンウィークの過ごし方ではあったが、自分に
とっては忙中の閑を有効に利用できた休みであったと思う。

サァ、明日からは公私共に忙しい中に身を投じ、”頑張るぞ”と、
気持ちを新たにしたのだった。この思いは一所懸命なのか
一生懸命のどちらなのかと、フッと考えた次第である。
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2009年04月29日

ブログが書けなくて困った話

今日からゴールデンウィーク突入である。
時が経つのは早いもので、4月も終わり5月になろうとしている。

ふっと、”少年老いやすく学成り難し”という言葉が頭に浮か
んだ。仕事や他の用事で忙しく、ついブログが疎かになる。
週1回のペースを維持したいのであるが、時間は容赦なく過ぎて
いく。

”一寸の光陰軽ろんずべからず”、正に私に投げ掛けられた言葉
ではないかと反省している。他の人はどのようにしてパソコンに
向き合っているのだろうか。

私の場合、パソコンが生活の一部になってないような気がする。
文章を書くのは好きだし、苦手ともしてはいないのだが、言い訳
するとあまりにも時間が無さ過ぎるのだ。少しずつ書き溜めると
いうこともできない。

自分だけの日記であれば思いついたことを、メモする気軽さで
スラスラ書いていけるが、パソコン、ブログとなると人様の目に
触れるというのが、気持ちの負担になっているのかもしれない。

最近の私の趣味といえば、エアロビ、ダンス、ゴルフ、山登り、
ウオーキングと体育会系の乗りなのである。どうしてもパソコン
のキー操作が右脳にも左脳にも反応しないらしくて、ついつい
一日伸ばしになってしまうのが現状なのである。
他の行事のようにパソコンの日、時間というものを仮に設定した
としても、用事が入ればキャンセルとなるからこれもうまくない。
どこを切ってもアナログしか出てこない昔人間の私としては、
いかにデジタルと融合するかが今後の課題となりそうである。

昔読んだ「鉄腕アトム」の作者、手塚治虫氏の話の中に、作文の
苦手な友達がいてついぞ作文で誉められたことが無かったという
のがあった。しかし唯一「作文が書けなくて困った話」という
のが賞を取ったそうである。なんとなく想像できる。
書けない理由や、自分の思いを訥々(とつとつ)と書き重ねた
文章であったに違いない。

人は得意なものには熱心に努力するが、苦手な分野では敬遠
したくなるから、いつまで経っても得意科目とはならない。
本当は逆でないといけないのであるが。

私も、せっかく始めた?才の手習いのパソコンを気負うことなく、
身の丈に合ったやり方で、細く長く続けられたらいいナと思って
いる。指先を動かすことは老化現象防止に役立つというから、
せいぜい拙文(せつぶん)を書いて楽しみたいと思っている。
posted by ochiyo at 08:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2009年04月15日

”おくりびと”を観て

”おくりびと”のDVDを観た。アカデミー賞外国語映画賞を
受賞した作品だったので、是非観たいと思っていた。この作品は
青木新門氏の「納棺夫日記」を基に製作されたものだという。

物語は主人公の本木雅弘はチェロ奏者で所属する楽団が解散し
末広涼子扮する妻と共に山形の田舎に帰って来る。
仕事を探していて求人広告を見て飛び込んだのが納棺師の仕事
であった。自分の就いた仕事を妻に言うことが出来ず、後に
妻や、同級生に「子供に誇れる仕事に就いて」、「汚らわしい」
とか「町中の噂になってるぞ、もっとましな仕事をしろ」などと
言われる。本人も周りの人々も職業に対する差別意識が有る
のである。

風呂屋のオバちゃん(吉行和子)が死んだ時、その息子である
同級生と妻が初めて納棺の儀式に立会い、それを見て自分達の
意識の過ちに気付く。納棺師に対するそれぞれの家族の色々な
対応を描いていき、最後に別れて久しい父親の死に立ち会う。
葬儀屋の父親に対する粗雑な扱いに自分にやらせて欲しいと
願い出る。

握り絞めていた手を開くと小さな丸い石が転がり出る。それは
”いしぶみ”と呼ばれるもので、文字が無かった時代に自分の
気持ちを込めた石を相手に送ったという。主人公が子供の頃
父親と河原で交換した”いしぶみ”であった。嫌っていた父親の
心情を初めて理解し、涙しながら納棺の儀式を行い、最後に妻の
お腹の赤ちゃんに小石を当てるところで物語は終わった。

内容としては地味な映画である。全編にBGMとしてチェロの曲が
流れており、物悲しいメロディが効果を引き立てていた。
山崎努扮する、社長の演技が渋く光っていた。
フグの白子焼きを美味しそうに食べるシーンでは、食べることも
人間の営みの一つであり、人間は生き物の”死”の上にしか
”生”を享受できないことを暗示していたのではないだろうか。
私の記憶違いかもしれないが、この人のデビューは黒澤明監督
の「天国と地獄」の誘拐犯人役ではなかったかと思う。若い時
から優れた性格俳優であった。

それと笹野高史、演ずるところの銭湯の脱衣所でいつも詰め
将棋をしている焼き場のオジサンだ。ヒョーヒョーとした演技が
往年の笠智衆(ふうてんの寅さんに出てくるお寺の和尚の役)
を思わせるようで、「死は門です。死は終わりではなく門を
くぐって、次へ向かうまさに門です。私は門番として、沢山の
人を送ってきた。行ってらっしゃい。又、合おうって言い
ながら。」

このシーンを涙して見ながら、30数年前亡くなった義兄のその
場面を思い出していた。いまはどうか知らないが、その当時は
火を着けるスイッチを身内に押させていた。泣き叫ぶ長男の手を
2人の兄が無理矢理押さえつけてスイッチを押させた。とても
辛くて見ていられなかった。その2人の兄も亡くなって、もう
この世にはいない。

この映画を観終わって私の気持ちには複雑なものがあった。
差別と死について考えさせられたからである。世の中にはまだ、
職業や病気、人種、地域など様々な貴賎、差別が人々の根底に
あり、葬儀社や死人を扱う仕事を侮辱する社会構造があり、
現に、火葬場やゴミ処理場などを自分の住む地域に造るのを
反対するといったことがおこる。皆がお世話になり必要として
いるのが判っているのにである。

人は生を受けたからには、人生において長い短いの差はあれども
死を迎える。悲しみに大小の差はないと思うのだが、死の中でも
連れ合いに先立たれるのが最も悲しいことだと人は言う。
その悲しみに直面した時、全身に悲しみを表すのか、それとも
奥歯をかみ締めて泣き声を殺すのか、どちらになるのか私には
その時を待たねば判らない。


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2009年04月11日

4月になって

この2週間、公私ともに忙しくパソコンに指がいきませんでした。
三寒四温を繰り返して、長かった冬がようやく終わりを告げ
ました。待ちに待った春到来です。

先日、息子に「春を色に例えると何色?」と尋ねると、即座に
「ピンク」と答えた。桜をイメージしたのがすぐに判った。
つい10日ほど前に体操仲間と埴生公園に花見に行き、満開の
桜の下でお弁当を開き楽しい会話に花を咲かせたひと時が
思い出された。

家人に「何色?」と問うと「黄緑」と言う。ゴルフ好きの
台詞らしい。冬の間、枯れていた芝が一斉に緑色に変わり、
木々の新芽が萌え出した様子を連想しているのだろう。
つい何日か前に北海道のゴルフ場で家族とプレイしていた女性
が芝の下に出来ていた穴に落ちて死亡したニュースがあった。
ようやく長い冬から開放されて、これから春を満喫しようと
した矢先の出来事だっただけに、胸の痛む想いであった。

日祝祭日の高速道路料金が1000円というのも始まった。
行楽地付近のインターチェンジはどこもすごい混雑である。
パーキングエリアも車を停める場所が無いほど一杯である。
思い掛けない経済効果にレストランや売店などは大喜びで
あろう。一方、長距離トラックの運転手さんの談話では、
「渋滞や混雑での事故が心配だ」との声もあった。
四方ハッピーとならないのが世の常なのか。

5日の日曜から、「直方チューリップ祭り」も始まりました。
毎年、直方ライオンズクラブは会場で献血活動とバザーを開催
して、ウドンやその他色々な食べ物を販売し、売りあげたお金を
寄付する奉仕活動を行っています。
私も早朝からボランティア活動に参加し、美しく咲いたチュー
リップを見る暇も無いくらい忙しい一日を過ごしました。
何年か前に心無い者によるチューリップを荒らすという、
情けないニュースが全国に流されたというのが一瞬、頭に
浮かんだ。直方市がどこにあるのか知らない人でも、魁皇の
出身地であることは皆知っています。 故郷のイメージダウンに
なるような行為は、厳に慎むべきであると気持ちを新たに
しました。

「ママさんは何色よ?」と息子に聞かれ考えましたが、イメージ
した色は言われてしまってその他というと、まず花の色を想像しま
したが多すぎて決めてを欠き、想い巡らすうち「淡いブルー」と
いう答えを導きだしました。雪解けの小川の流れもそうだし、
「青春」もそのものではないか。青春時代に年齢制限を設けない
私としては、半年ぶりに山登りも再開せねば、今年はライオンズ
クラブの「ゴルフ同好会」にも参加してみようかなど考えたり
しています。

春の暖かい日差しは生きるもの全てに、活動をうながす力を
与えてくれているような気がします。4月になって新学期も
始まり、新しいランドセルを背負ったピカピカの1年生が通学
しています。
希望に燃えたこの子供たちのように、私もまた青春を完全燃焼
させるため老体(丸体?)に鞭打って頑張ろうと思っています。


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2009年03月25日

WBCについて

はっきり言って、私は野球オンチである。
野球の内容やルールなどはよく判らない。

その私が、昨日、今日と早朝にもかかわらず、WBCを
2日続けて見てしまった。家人に声をかけて解説付きの観戦で
ある。

昨日の準決勝、アメリカ戦は私なりに安心して見ていられた。
私が思うに、アメリカはベースボール発祥の地であるから世界一
強いんだろうと思うが、家人に言わせるとメジャーリーガーの
大部分は外国人が占めていて、今回のように16チームに分か
れて戦うとなると戦力が分散されてしまうという。
それにアメリカの選手は自分の野球を第一に考えていて、
超一流の選手は出ていないのだそうだ。体付きなんか見ても
絞ってきているようには見えなかった。

試合は松坂投手がホームランは打たれたものの、しっかり抑え
後のピッチャーもしっかり投げて完勝であった。
今大会、初スタメンし3安打と活躍した、川崎選手がインタ
ビューの中で「自分は試合に出てなくても皆と一緒にベンチの
中で戦っています」と言った言葉がスポーツマンらしく清々しく
感じた。

今日の決勝、韓国戦はハラハラドキドキの連続でした。
1点取ったら取り返されるの連続で9回裏、2アウトまで
3対2で勝っていたが土壇場で1点入れられ同点となり延長戦に
なってしまった。もし、このまま負けたならダルビッシュ投手は
辛いだろうなと思いながら見ていた。
延長10回の表にイチロー選手の劇的な2点タイムリーで
5対3と勝ち越し最後はダルビッシュ投手がバッターを三振に
しとめてゲームセット。WBC2連覇を達成したのだった。

イチロー選手は東京ラウンドの予選からずっと調子が上がらず、
本人は「ずっと谷でした。最後に山がきてよかった」と。
国民の皆が”世界のイチロー”がやってくれるであろうとの
期待を一身に受け相当なプレッシャーの中で闘い続けてきたので
あろう。結果を出せないまま終わる訳にはいかないと、最後の
最後になって世界のイチローが意地を見せてくれた。

今度のWBCを私なりに総括してみると、監督、コーチをはじめと
して選手達が自分達のやるべきことをしっかりやり、チャンスを
作り活かして、世界一を勝ち取ったと思う。書くのは簡単で
あるが、結果を出すことの難しさは私でも判る。

自分の仕事を顧みれば野球そのものである。ママが監督であり
コーチはマネージャー、女の子が選手である。中々、監督の思う
ような試合運びは出来てないと思うが、お客様に満足して
いただくために、創意工夫を凝らして、これからも営業に、
健康作りにも励んで頑張っていこうと。
今回の野球を見ていて思うことは結果を出すには常日頃の
努力の積み重ねが、いかに大事かが良く判りました。

野球はチームプレーのスポーツであり、イチロー選手が調子が
悪くても他の選手が頑張る。又、試合に出ていない選手や
スコアラー、ブルペンキャッチャーなど、映像に出てこない所
での頑張りと協力があったからこそ、今回の結果を生んだので
あろう。勿論、声を嗄らして応援を、し続けてくれた大勢の
皆さんの声援が励みになったのは間違いないところでしょう。
長い間、本当にお疲れさまでした。今夜は勝利の美酒に酔い
しれて肩の荷を降ろしてグッスリお休みください。

今回のブログは、私の最も不得手な分野で、家人の解説と
アドバイスを元に書きましたが、まず、野球用語がチンプン
カンプン、「スタメンちゃ何ね」「スターティングメンバー
たい」。「そりゃ何ね」。「最初から試合に出ている選手の
こったい」と漫才のような掛け合いで仕上げました。
暗いニュースが多い中、久し振りの明るい出来事であったと
思います。

最後に、常にクールでポーカーフェイスのイチロー選手が優勝が
決ってライトの守備から戻って来るとき、初めて笑顔をみせた
のがとても印象的でした。






posted by ochiyo at 15:59| Comment(2) | TrackBack(1) | 日記