2010年09月19日

彼・我との差

砂漠で水筒の水が、まだ半分もある、もう半分しかない。
何ゆえにこの言葉が頭に浮かんだのか。
この”も”と”しか”の差が私と家人の考え方の差なのである。

15日に、私は宮若市のマリーホールで行われた”直鞍手話
スピーチ大会”に行くために午前10時にライオンズの玉井氏
とお店の前で待ち合わせ、同乗させてもらうことになっていた。
自宅よりお店までは20分を要するので、10分をプラスした
9時30分に家を出るつもりだったが38分になってしまった。

途中の直線道路で心なしかスピードが出過ぎているように
感じたので「急がなくても充分間に合うョ」と言うと、
「アナタは10時に着けば良いと思っているだろうが、乗せて
もらう人間が迎えに来る人を待たせるのは言語道断。
相手が5分前に来てたらどうする」。案の定、玉井氏は
待っていた。それも5分前に着いたにも関わらずにである。
待たせれば必ず、遅れた言い訳と断りを言わなければ
ならない。「俺はそれを言いたくないから待つことはあっても
待たせることは絶対にせん」。

こんなことも言われた。「俺はアナタと時間を約束したときは、
3分前には着いている。しかし、約束の3分後に出てくるだろう。
最初の3分はいい、しかし後の3分は許せん。遅れることに
よって俺は6分待たされた気分になる。それなら3分遅れを
見越して6分後に迎えに来る。それでアイコだ」と。

私にとって、たかが3分であるが、家人にはされどなのである。
私の気持ちの中には定刻に間に合えばいいではないかと
いう気持ちがあって、そんなに悪いことをしたという感覚がない。
しかし、この考え方は往々にしてミスを犯すことになりかねない。

例えば、12時出発となっている場合、定刻に着くのは間違いだ。
点呼や、その他出発に要する時間を加味しなくてはならない
からだ。団体で行動する場合、必ずと言っていいほど遅れて
来る人がいる。遅れて来るならまだしも、「自分の車で行くから
先に行ってください」という輩さえいるのである。
”人の迷惑顧みず”の見本であろう。これは出発と書こうが、
集合と書こうが遅れる者は遅れる。

だから、家人は旅行などの集合は15分前、ゴルフは最低30分
前に到着するように家を出ろと言う。それプラスの5〜10分の
余裕の時間が必要なのだと。
「なんでそんなに時間に対してシビアなのか」聞いたことがある。
「自分は仕事で時間と競争してきた。1時間で1行程をこなすと
して、8時間働いて8工程。これを9工程にするにはどうするか。
この1行程が儲けなのョ。それにはまず”ミスをしない”、”
ロスを無くす”、”1から2に移るとき並行して次の準備を
しておく”、”1人で2人役も3人役も担う気持ち”がないと
達成は難しい。
この浮かした1工程X工事日数で生まれた余剰時間は、次の
利益に繋がることになる。
人数を増やしたり、労働時間を長くすると人件費に跳ね返り、
利幅が薄くなる。シビアなはずである。

時間は万人に平等に与えられるものの一つだ。
考え(使い)ようによっては相当個人差が出てくるだろう。
時間を上手に使う人ほど時間を生み出す努力(知恵をしぼる)
をするのであろう。
生み出した時間を有効利用することにより又、新たな時間が
生まれる。

この”も”と”しか”の差が何倍にもなるのだ。
理論は充分過ぎるほど判っているのだが、只、それを実践する
覚悟が希薄なのだ。その訓練もしようとはしない。だから
身に付くはずもない。

チクチクと身を刺すような言葉を浴びながらでも引っ張って
いってもらおうと考えている。どこまでも私は自分に対しては
優しいひとなのである。「頼りにしてまっセ」。
「アテとフンドシは向こうからはずれる」と合いの手が返って
きた。Oh my God ! ! 。 我には 自力更生の道しか
ないのか。



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2010年09月08日

母親として思うこと

「本棚を整理していたら30年前の文集が出てきた。
これは昭和56年度PTA活動の中の家庭教育学級に参加した
保護者の書いた作文で、長男が小学4年生の時のものである。
今、読み返してみると青いナーと思う。
せっかくだから、記念にブログに載せようと思い
キ―を打っています。」


子供が産まれるまでは五体満足を願い、保育所に通う頃には
体の丈夫さを願い、小学校に入学すると心身共に成長していく
子供に目を細め、子供に対してどうこうとあまり期待しなかったし
特別の不安もありませんでした。ところが今は親にしても
子供にとっても大変な時代と思うようになりました。

ある雑誌にこんな事が書いてありました。今は表現のしようの
ない程困った時代であり、家庭の中には教育過熱と教育放棄とが 
入り混じり、学校へ行けば規格品製造の時代であり、一歩外へ
出れば交通戦争時代で子供たちはその中で日に日に人間性を
喪失していっていると云っても過言ではないと。 

全くその通りだと思います。子供たちの将来を考えれば考える程、
大人である私たちが何とかしてあげなければ・・・と思います。
大人である私個人の生活を考えますと、それなりの生き甲斐、
楽しさもあり、世の中がどう変わろうとそれに順応し、又、
耐え得る精神、肉体の強さも持っており、世の中の流れに
身をまかせながらも、自分を見失ってはいけないと頑張って
おりますし、逆らう力も抗議する術も知っていて、私だけを
思うと楽しく意義ある毎日なのです。

今の子供は何不自由なく幸せだと聞きますが、私は決して
幸せだとは思いません。先輩、友人と教育に関する問題を
語れば語るほど、勉強すればする程に今の子供たちを哀れに
思うし、親として大人としての責任を感じると共に、
これから先どう対処していけばいいのか悩み考えます。

我が家の教育方針も子供の年齢と共に変わってきたような
気がいたします。長男の場合は4歳の頃から読み書きを
教え、1年生を終了する頃までは世に言う教育ママ的な
考えでおりました。然し段々と勉強しなさいと言う事より
何のために誰のために勉強をするのかという事のほうが
先ではないかと思うようになりました。何のためは
相手の話、云っている事を理解し自分の思っている事を
相手に伝える力を養うため、誰のためには親のためでも
何でもなく社会の一員となる自分のためであると
いうように。

この世の中には多くの矛盾があります。我々大人は
本音と建前を使い分ける生き方をしています。
必要悪というものを是認するような傾向があります。
それでいて子供には正義を教えなければいけないのです。
現実と理想の間で悩んでいるのが現状です。
しかし、これらのものは大人の目の位置でものを見聞き
しているのです。子供の目の高さまで下がってやって
考えて教えてやるべきではないでしょうか。
成長するにしたがって、物の見方、考え方は進んで
いくのですから。まず、出発点での方向さえ間違わない
ように指導してやれば、どうゆう歩き方、走り方を
しようとその子供の能力に応じた考え方、生き方を
身に付けていくはずですから。

IQ(知能指数)を伸ばす事も大切ですが、EQ(倫理指数)も
伸ばせるように私たち親が率先して手本になれるような
生き方、考え方をしなくてはならないと思います。
理論に実践の伴わない毎日ですが、これからもしっかり
勉強して行こうと思います。それが子供のため、ひいては
私自身のためにも。
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2010年08月27日

暑い夏の夜の物語

kaneko_san_blog.jpg
昼間は35度を超す猛暑が続いているが、夜ともなると
随分涼しくなって虫の声も聞こえてくる。
秋は確実にそこまで迫ってきているようだ。

前回のブログからもう3週間も経っているのに書けない。
ぼんやりとお月さまを見つめながら、そのことについて
考えている。7月からライオンズクラブのホームページと
広報紙に携わってから約2カ月。
ホームページのリアルタイムと広報紙の締め切りに追われて、
自身のブログが疎かになるのではとの予感はあった。
それにペース配分もよく判らず猛進したところもあって、
現在、文字に対して頭が拒否反応を起こしているみたいだ。

タイトルだけは次々と思い描くのだが、あれはイヤ、これは
書きたくないと時間だけが無情に通り過ぎていく。
6日、9日の広島長崎への原爆投下、12日の日航ジャンボ機の
御巣鷹山墜落、15日の終戦の日と頭の中では色々と浮かぶ
のだが、どれも辛い話ばかりでこれも書けない。高校野球を
書こうと思うと忙しくて見ていないのでこれも駄目と、筆の
進まないことへの言い訳ばかりが頭に浮かぶ。

夜空を見上げながら、これを書こうと思いついたのは、先週の
日曜(15日)の夜、夕食を終えビールを飲みながら涼んでいた
家人がポツンと「ジリジリ照りつける夏の太陽の下で、暑苦しい
深緑色の葉の中に濃いピンクの花を咲かせていた夾竹桃の
ことが何故か思い出される」と語ったのである。それに加えて
油ゼミの大合唱が暑さをさらに増幅させていたという。
珍しく自身の夏の思い出を語ってくれた。

学生時代には休みという休みはアルバイトに明け暮れていたと
いう家人は不思議と春休み、冬休みは何のバイトをしたのか
よく覚えていないという。
40日もある夏休みは少しでも高い賃金が得られる肉体労働に
就いたという。
炎天下の中、大人に混じってやる仕事は高校生の少年に
とっては過酷なものであったろう。10何人かの同年の子は次々と
辞めていき、休みの終わりには自分一人だけが残っていたと。
貧しさ故に辞めたくても辞められなかった辛さを家人は語らない。

結婚してから一度だけ「何故仕事の話をしないのか」と尋ねた
ことがあった。「自分は危険な仕事をしているから話しても
心配掛けるだけだから言いたくない。苦労話を家族にしても
言い訳、泣き言にしか聞こえないだろうから聞くな」。
それ以来お互いの仕事のことには踏み込まないようになった。

「こんな物があるんだが」といって、額の裏から一枚の画用紙を
取り出してきた。黄色に変色し所々破れている画用紙は65年前の
終戦直前に描かれたものだという。
家人が子供の頃、母親から聞いた話によると、終戦の1〜2カ月前
のある日、当時、佐世保の海軍工廠に勤めていた母親(絵の中の
スガサキ嬢)が踏み台に乗って壁の黒板に連絡事項を書き終え、
降りた途端にオケの水を掛けられ、ビックリしてモンペの裾を
掴んだ瞬間の出来事をスケッチしたもので、絵の中での間違い
は腕時計は右手に、モンペにベルトをしていた2か所だけだった
そうだ。2〜3日後に壁に貼り付けてあって皆で大笑いした
そうである。

これを描いたのはサブローという日本と中国の混血(今でいう
ハーフ)の二十歳前の青年で、雑役係として働いていたそうで
ある。これには後日談があって、このサブロー青年は目にした
物事を記憶しそれを絵に描くという特技をもって、軍港の施設
などを図面にしていたのだそうだ。
しかし憲兵に捕まり銃殺刑に処せられる運命にあったという。
鉄格子の中で死を覚悟した、過酷で,暑く、長い一日を過ごす
絶望の日々は、想像を絶するものであったろう。幸いにも、
処刑される前に終戦を迎え彼は助かったという。
もし存命ならば85歳前後であろうが、彼も又、この過酷な
体験を語ることはないのであろうか。

人にはそれぞれの人生や、物語がある。長く生きていれば楽しい
ことより、辛いことのほうが数倍あることだろう。家人は自身の
ことや、両親のこと、過去のことなど殆ど話さない。
それ故なのかこちらのことにも触れようとしない。
私と一緒になる前にも、楽しいこともあったであろうに。
酸いも甘いも奥歯で噛み締めて口を閉ざしている。

この絵は母親の遺影の裏側でヒッソリと眠っていたのである。
おそらく何十年ぶりかに私たちの目に触れたのだろう。
亡き母親にとって、ソッとして置いて欲しかったのか、目に触れて
欲しかったのかは私には判らない。
しかしこの絵は戦争中の小さな出来事を表しているのである。
やはり語り継ぐべきではないのか。

私は夾竹桃の花を知らない。目に触れた折に教えてもらおうと
思っている。



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2010年08月01日

あるロックシンガーの死から1年

今日(28日)は、ロックシンガーの川村カオリさんが
亡くなった日である。あれから早いものでもう1年が
経つ。テレビで報道していた。

1年前の6月のブログ(私が最近、目にした事柄)で
ガンのことを書いた文の中で彼女のことを取り上げた。
それから1ヶ月後に、7歳になる娘を残して天国に
旅立ったのである。

このブログを読んだ京都の娘から、「彼女は1歳
年上で私が高校の時にデビューしたのよ」と
メールをしてきた。そしてその頃買ったという
デビュー曲の"ZOO"や”翼をください”が入った
CDを送ってくれたのだった。

17歳でデビューした彼女は、日本人の父とロシヤ人の
母の間に生まれたハーフで、髪を短く刈り上げた
ボーイッシュな可愛い女の子であった。
結婚、出産、離婚を経験し、30歳を過ぎて乳がんを発症。
女の命である左乳房を切除したが、リンパ節、骨、肺に
転移していった。

病と闘いながらシンガーとしては勿論のこと、マンモグラフィ
検査の大事さを説くピンクリボン運動に関わり、
ファションブランドを立ち上げと頑張っていた。

母親である自分が”うたいて”であることを、娘に伝えたいと
ライブを思い立ち、亡くなる2ヶ月前の5月に、舞台の裾から
見守る娘の前でステージに立った。
椅子に腰掛けて、10年後には自身がデビューした歳と
同じ17歳になる娘に、母親の娘を想う気持ちを託した
メッセージソングも含む13曲を歌い終え、アンコールに
応えて、歌った曲はデビュー曲の”ZOO"であった。
痛みに耐えながら椅子から立ち上がり、ギターを弾きながらの
熱唱であった。
涙ながらにファンにお礼を述べ、「又、会いましょう」の言葉が
最期となった。

幼い娘を残して逝く母親の辛く悲しい気持ちを思う時、
私は25年前に8歳の一人息子を残して、33歳の大厄で逝った
一番下の妹が思い出される。
離婚して帰って来て、実家の隣に住み、実家の会社の事務を
しながら、自宅で学習塾を開き、ブティックも手掛けていた。
又、老母の看病もよくする心優しい頑張り屋の妹であった。

そんな妹が生前、私に「自分に何かあった時は姉ちゃん
息子を頼むね」とよく言っていた。
一人ぼっちになった甥を我が家に引き取り、3人の子供と
一緒に厳しく育てた。
今、振り返って思うのはもっと甘えさせ、もっともっと抱きしめて
やればよかったと思っている。
この子も今では2人の娘の父親となった。

時の移ろいは悲しい記憶や、胸の痛みを薄れさせてはくれる。
しかし、フッとした瞬間に蘇るのである。
それは夫婦、親子の会話であったり、似たような状態に
遭遇した時にそうなることがある。日頃は胸の奥の引き出しの
中に仕舞っていたものが、自分の意思とは関係なく表に
出て来るのである。

何故に、まだまだ務めを果たしていない人や、まだ生きていたい
と願う人が先に逝かねばならないのだろう。
ロックシンガーの川村カオリさんの一周忌が、四半世紀前に
亡くなった妹のことを思い出させてくれるキッカケとなった。

言っても仕方の無い事であるが、生きていれば58歳になる。
孫の話でもしながら仲良く暮らし、色々な話がしたかったのに。

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2010年07月21日

書くということについて

今期(7月)より、私はライオンズクラブの
広報委員長として、クラブのホームページと
月一回発行の”年輪”という広報誌の編集に携わっている。
それに自身のブログもあるから、仕事以外の
時間は常に文章について考えている。

紙面のレイアウトに始まり、諸行事の写真撮影や
インタビュー、文章作成、打ち合わせなど、終いには
ホームページの分と年輪の物とが交錯して、頭の中が
パニックになりそうになる。
出来上がったものの中にも、誤字脱字があるので
それを訂正するのに、ホームページの文はパソコンの
武内先生へ、広報誌の方はL.白石にメールやFAX、電話で
その度にお願いすることになる。

そうこうしていると、自分のブログが疎かになる。
今では月に3回書くのが精一杯の現状である。
私の頭の中は、スローライフに出来ているので、このように
次から次へと宿題を出されても、こなしていくだけの
能力に欠けているから、一ページ、一ページ丹念に
仕上げていくしかない。

かくして、私の一日は起きてパソコンを起動させ、メールを
見る事から始まる。返事を書いて返信し、ライオンズと
お店のホームページを点検して一段落。

ライオンズのホームページはリアルタイムに発信しなければ
ならないので、行事や事業がある度に写真や記事を
掲載することになる。又、広報誌は月一回の発行なので
会員の皆様に、この月の活動が詳細に把握できるように
書いていかねばならない。

書くこと自体は私はあまり苦にはしていない。
起承転結を軸に、枝と葉っぱ、花の色を考え、情景や
心理、比較などを組み合わせて文を構成していくのである。
丁度、音階と旋律を組み合わせて曲を作っていく作業と
似たところがある。

唯、事実を並べていけば文章になるかというと、そうは
いかないところが難しい。それは彩りや色気に欠けていて、
抑揚に乏しい面白みに欠けたものになってしまうからだ。
そんな時は、アンコとして閑話休題のような別個のものを
引っ張ってきて味付けする。

前回の釜山旅行の文章のように、登場人物のコキおろしや
旅先の情景、彼我の比較を書いていくから、書くのはそんなに
難しくはない。ただ、結婚式のビデオと一緒で、身内以外の
人には面白くもない文章になっているのではないかと心配だ。

ブログを書き始めてから3年近くになる。最初の頃のものを
読み返すと、文も短く面白みに欠けるものばかりだ。
一つには、パソコンの操作がおぼつかなくて、文を書く時間の
何倍もの手間が、キーを打つのに費やされていたのである。
それだけで私の頭の中は疲労困憊。心が萎えそうに
なること度々であった。

そんな私が重たい三つの荷物を抱えて、旅立とうとしている。
一人で重い荷物は背負いきれないので、周りの人たちに
分担してもらい、会員の皆様に協力を仰ぎ、声援を
いただきながら、一歩一歩前進して行こうと考えている。

名文は書けるはずもないが、少しでも努力の足跡を残せるような
文を書きたいと思っている。
たとえ、歩みは亀さんやカタツムリであったとしても、私なりに
勤め上げようと考えている。

私にとって書くことは脳の筋トレでもある。
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2010年07月15日

古中同窓生との釜山旅行パート2

fuzan2_IMG_0002.jpg
2日目は、釜山から高速道路で1時間、新羅時代に
約1000年の都があった”屋根のない博物館”といわれる
古都慶州を訪れ、一日中楽しんだ。

まんじゅう型の古墳が立ち並ぶ“天馬塚公園”や、
新羅時代に随一の規模を誇った大伽藍を持ち、
世界遺産で名高い”仏国寺”。高麗青磁の窯元や
紫水晶見学など等。

高速をバスで釜山に戻りながら、4〜5年前に姉と
旅したことを思い返していた。
あの頃の釜山とは全くイメージが違うのだ。
釜山港に近ずくビートルから見える景色は、以前は
博多や大阪のような庶民の町といった感じだったのが
、都会然としたものに一変している。
特に、高速道路の両側は高層マンション(韓国では
アパートと言うらしい)が林立し、その景観は圧巻であり
この国の発展の象徴のように見えた。

市内を歩きながら市場や商店、特に露天商の、深いシワに
これまで生きてきた人生を刻み込んだ顔の、働き者の
オバサン達は、小さな木造家屋に住んでいるのかと
思っていたら、聞くと殆どの人があの素晴らしい高層
マンションの住人だそうで、成程、あの数と高さなら
それも有りかと、そのシワだらけの顔と近代住宅の
ミスマッチぶりに妙に納得。

飲食類にしても、ビールも日本の物と同じように美味しい。
食べ物も、辛いものは苦手な人以外は初めて食しても
殆どの物が大丈夫である。
只、食文化の違いはあって、例えば日本は器や盛り方など
見た目の美しさを重要視するが、韓国の場合それはあまり
感じられない。同じような大小の白い丸い器に盛って
それを皆で直バシで食べる。少なくなるとその上に追加する。
日本では、静かに食事するイメージだが、こちらでは、
全く格好つけず大声で話しながら食べている。

最近、国内外を旅行して感じるのは、周りの人の服装が
とてもラフになったこと。飛行機に乗るのもTシャツGパンは
当たり前だ。ゴルフ場でさえドレスコードを緩め、丸首短パン
OKのところも増えた。

以前の私であればTPOをまず考え、衣装を調えていた。
文化は時代と共に変わりゆくものなのだろう。
我が家に出入りしていたテーラーの社長が「洋服は文化の
バロメーターです。TPOを忘れた洋服ほど悲しくみっともない
物はありません」と語ったことを心の引き出しに仕舞っている。
こんな私ですら、旅行の時はあまり気にしないで動き易い
服を着ている。

最終日は、太宗台で遊覧船に乗り絶景巡り。晴れた日には
対馬が見えると言うが、あいにくの曇り空でそれは叶わず。
船内では周りの迷惑顧みず、まるで貸切の如く、韓国ばりの
大声で喋り大笑いしまくった。

船から上がって、国内三大観音聖地と言われる”龍宮寺”へ。
ここでは一つだけ願いが叶うと伝えられている。
私は「いつまでも元気で、このメンバーと歩いて食べ飲んで
笑ってが、続きますように」と祈願した。
最後のショッピングを楽しみビートルで帰路についた。

振り返ってみると、今回ほど歳のことなど気にせず,貪欲に
ギッシリ詰まったスケジュールを楽しみながら、よく食べ
・飲み・歩き・笑い・ショッピングを楽しんだ旅はなかった。

旅から帰って来ると、必ずアッチャンが「お千代、皆が元気で
旅行出来るのもあと5年よ!」。これに対して「あと10年よ!」
と返している。お互いにこのセリフを言い合ってもう何年に
なるだろう。この分でいけば案外「あと10年よ、15年よ」と
なる可能性は大である。みーんな、仲良くいつまでも元気で
頑張りましょう!。我ら古中のチームワークとヤングパワー
に乾杯!。

全員参加の釜山旅行反省会が、うちのお店で7月25日に
行われる。当日はビデオ、写真を見ながら旅行の延長気分で
マッコリならぬ美酒に酔い、想い出話に花を咲かせ大いに
盛り上がりましょう!。


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2010年07月09日

釜山旅行パート1

fuzan_ryokou1_0002.jpg
6月20日(日)〜22日(火)に古月中学同窓生との2泊3日の
釜山旅行を楽しんだ。

前日(土、仕事を終え、後片づけ掃除を済ませて帰宅したのが
午前3時半。一睡もせず準備してアッチャン宅へ5時40分。
あちこち皆を拾い博多港へ。予定の到着時間を1時間も
早く着いたのは良いのだが、ドライバーの家人が場所を
間違えて、壱岐行きのターミナルに我らを降ろして帰って
しまった。
本当の場所は対岸の国際ターミナルだったのに。
仕方なく背に荷物、バッグをガラガラ引きずりながら
20分ほど歩いて到着。

今回のメンバーは12名。
・写真写りがそれなりに良いアッチャン(恋人は愛犬ハリー、
永久シングル)。
・写真写りだけは女優なみのお千代(これでもバイアグラ
じゃなくて梅林ギャルだゾー)。
・必殺得意技は破顔一笑の古えのマドンナ、誠子チャン。
・顔も体も丸く(全身冗談)起きてる間中笑っている里子チャン。
・このグループ旅行に初めて参加してシワが増えて困ったが、
これからも誘ってネを連発する洋子チャン。
・2年ほど前に夫に先立たれ、今でも毎日仏壇に手を合わせ
亡き夫を偲ぶ古風な女、照チャン。引き籠ってばかりでは
駄目と引っ張り出した。

男性陣は、・以外にも海外旅行は初めてという、声を出さず
して笑う優しいコバヤン。・マーマァと仲介役が板に付いてる
元ポリスマンの松岡くん。・中国語学校に熱心に通ういつまでも
真面目人間の梶栗くん。・いつも黙して微笑む穏やかな紳士、
愛妻(?)には必ず素敵な土産(プレゼント)の品定めに余念の
ない野口くん。・眼光鋭く寡黙なイメージの元ポリスマン、
そのうち我らウーマンパワーでお笑いにイメチェンを図ろうと
考えている。只今肥後モッコスの香川くん。
・殿りは我らが(ショート)ホープ、大きな体に細心の心配り、
小さな親切大きな態度,メタボのモンゴリアンBenQ

水中翼船のビートルでいざ出発。梅雨入りしたというのに
雨にも遭わず、海も穏やかで3時間程で昼前に釜山に到着。
美人のガイド付き専用バスで釜山一、大きいと言う国際市場へ。
朝鮮戦争後のヤミ市から建ち上がったもので、とにかく広い。
コリアンパワーが凝縮されたような場所だ。

次に龍頭山公園へ。市民の憩いの場になっていて何故だか
老人が多く目についた。私が思うに韓国の女性は働き者が
多く、歳を取っても仕事に励んでいて、遊んでいるのは
ジーさんばかりとなる。この後免税店でショッピングを楽しみ、
海雲台グランドホテルへ。

夕食はニンニク、トウガラシばりばりの韓国料理のフルコース。
満腹になった後は皆でカジノへ 。ギャンブルの結果は80万
ウォン程の勝ちとなり、この軍資金のお陰で残り2日間の旅が
より豪華なものとなった。

今回の韓国旅行(前回はソウル)は飲む(マッコリ)、打つ
(カジノ)、買う(免税店)、見る(観光)、食べる(なんでも
かんでも)、笑う(食事時、車中、遊覧船)、等など最高の
思い出深い旅となりました。

2日目以降は紙面が尽きましたのでパート2で書きたいと
思います。
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2010年06月28日

父の日に思う事

20日は父の日である。母の日と比較すると
どうも影が薄いように感じる。

私がバースディと母の日が重なるように、
家人も又、誕生日と父の日が近いので
両方を兼ねて誕生日だけ祝ってきた。

現役の頃の家人は、家族のために仕事を
頑張るといった人で、「男子厨房に入らず」
「子育ては女房まかせ」というような生き方を
してきた。「俺は子供たちには手は出さないが
厳しく接する。好かれなくて結構」と
going my wayであった。

子供たちが小さい頃は、「男が泣くな」や
練習などをサボると「やめっしまえ」が口癖で、
成長するにつれて「男が着る物と食べ物に
注文つけるな」 。「餌の取り方と身の守り方を
教えるのが親父の務めだ。それが身に付いたら
家を出るように」と言っていた。

序列を大事にし、食事の席順も決まっていたし、
ご飯のつぎ方でも、父、母、長男、長女と順番も
決まっていた。
外食でもこうだ。家人の同級生の寿司屋に行く。
私たちは上にぎりを食べ、子供たちは並の
サバ抜きを腹一杯食べる。飲み物は大将から
100円ずつ貰い、外の販売機からジュースを
買ってきて飲む、とこんな具合であった。

他所様(よそさま)から見れば、何とひどい親だと
言われるかもしれないが、これが我が家の
ルールであった。高校生の長男が「親父のような
生き方は今時はやらんよ」と言ったことがあった。
答えは「結構、俺の目の黒いうちは生き方は変えん。
お前たちに世話になるような事になったら考え方を
変えよう」。リタイヤした今でも基本的には変わらない。

私が子供の頃は、怖いものに”地震、雷、火事、親父”
と言われていた。両親、特に父親は怖かった。
いつの頃から”父親の権威”が地に落ちたのだろうか。
一説には給料が銀行振り込みになり、父親が稼いで
一家を支えているというイメージが薄れたのか、
共稼ぎが増えて女性が強くなったからとも言われる。

我が家では子供が小さい頃は給料袋で貰っていた。
その日は給料を仏壇に供え、灯明をあげて手を合わせ
、父親の労働に感謝することを教えた。

このような育て方であったから、子供たちから見たら
私達夫婦は強烈な両親と映っていたかもしれない。
3人の子供たちも皆、家を出て独立し生計を立てているが
父親に対する評価は分かれるところであろう。
長男には厳しく、娘には注文はつけず、次男には
甘辛い父親であった。

娘の結婚が決まり、京都に引越しする際に娘の頼みで、
レンタカーのトラックを運転し荷物を運んだことがあった。
「24時間で1200Km走ったのは初めてだ」。
帰りにお礼の手紙と、クロネコヤマトに頼んだ方が安上がりに
つく程のお金が包んであった。結婚以来、父親への思いは
良いほうへ変わっていった。

次男は、野球のため7年間好きなゴルフを封印して面倒を
見てくれた父親とは、親分、子分の関係で、父親の生き方
考え方を色濃く反映しているのは、この子が一番であろう。
母親の私にも喜ぶようなことを形で表している。

一番きつい目にあった長男は、今、自分の夢を目指して
頑張っている。父親に対しては反面教師として捉えて
いるのかもしれない。多くを語らず、人当たりが柔らかで
それでいて、内に闘志を秘めているような大人に
育ったと思っている。

母親から見れば、どの子も自分の面倒は自分で見ることを
実践している。私は教育と躾を教えてきたつもりだが、
案外、父親の物言わぬ背中が、各々の行き方に大きく影響を
及ぼしているのかもしれない。

父の日とは、父親に感謝の気持ちを表す日である。
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2010年06月20日

梅雨入りと智恵子抄

12日に梅雨入りが発表された
家人は雨が降り出す前に植木の手入れを
終わらせようと、木の高い所に登って
ハサミを入れている。
梅の木の剪定をした際に取れた実を小さな
ザルに入れて渡してくれた。

これまでは人様より、戴いたウメで梅酒を
漬けてきたが、今年は庭で取れたウメで
梅酒を造ることができそうである。

刈り込みの終わった日曜の夜に、二人で
久しぶりに自家製の梅酒の水割りを
飲みながらの会話に、「確か、高村光太郎の
智恵子抄の中に”梅酒”という作品があったよネ」
と私。「10年ものの梅酒を飲むという話だ 」と家人。

早速、本棚の“日本文学全集”の高村光太郎を
引っ張り出してきた。智恵子抄の中では
”あどけない話”がよく知られていると思う。
「智恵子は東京には空がないといふ。ほんとの
空が見たいといふ・・・」というものだ。
娘時代に文庫本をバックにいれて、むさぼるように
読んでこの詩を暗記していたのに、この歳になると
記憶は彼方に霧散してしまいすっかり忘れている。

「あった、あった」 。「死んだ智恵子が造っておいた
瓶の梅酒は十年の重みにどんより澱んで光をつつみ
いま琥珀の杯に凝って玉のようだ。ひとりで早春の
夜ふけの寒いとき、これをめしあがってくださいと。・・・
厨に見つけたこの梅酒の芳りある甘さをわたしは
しずかにしずかに味わう。・・・」

芳りある甘さの梅酒を味わう所作は私と同じでも、
智恵子に先立たれた光太郎にとっては、きっと
ほろ苦い味がしたのではないだろうか。

智恵子との結婚生活は愛と生活苦と芸術への精進と
矛盾との繰り返しで24年に及び、後半の7年間は
心を病んでの闘病生活であった。
彼女は、「あどけない話」で言うように都会の生活に
馴染めなかったのだろう。
彼女自身の性格や、体内に潜んでいた心を病む病巣や
貧乏や芸術家同士の結婚などが、分裂症を引き起こす
要因になったのかもしれない。

智恵子抄のページをめくりながら、先日パソコンの
武内先生からiPADを触らせてもらったことを思っていた。
この文明の利器は1台で、新聞も本も音楽もゲームもと
なんでもこいのメカである。
本を見せてもらったが、字や写真を大きくしたり、ページを
めくる動作があったりと感心するばかりだ。

私としては、この最新機器の良さは充分理解できるのだが、
iPADの中に入っている智恵子抄よりも、時代の変遷を
感じさせる黄ばんだページの智恵子抄にこそ、自分と
人生を共に歩んできたという連帯感と郷愁を覚えるのである。

去年の今頃のブログは雨に濡れるアジサイを書いた。
目に映る物から題材を得るほうが文章としては書きやすい
のであるが、タイトルによってはスラスラいくものと、途中で
止まって先に進まないものとがある。
来週は日曜から3日間、同級生と釜山に旅行に行く。
これは何となくスラスラ書けそうな気がする。

今回は梅雨入りから庭の手入れ、ウメの実、梅酒、智恵子抄と
繋いだので構成に手間取った。
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2010年06月07日

悪妻についての一考察

5月23日(日)に甥の長男の結婚式があり、
文の構成を結婚式の事から良妻と悪妻へ
持っていこうと、案はできていたのである。
が、決して名文を書こうと構えている訳では
ないのに、何故か筆が進まない。
何回も書き直すのだが途中で止まってしまう。

どうも心の中に、自分の悪妻ぶりを披露して
しまうような、心配の種があるのかもしれない。
文章としては自分を褒めるようなことは
書き辛い。だからどうしても一般論として
他人事のような書き方をして、自身を悪い
方から遠ざけて、善人に仕立て上げる工夫を
する。

最初は良妻から書き始めるつもりであったが、
良妻の対比は悪妻であるから、先にそれを
語ることにより、その反対が良妻であることを
導けばよいと気づき、目からウロコ。

私が苦吟している様を見て、家人がインターネット
で世界の三大悪妻をメモってくれた。
その内容はこうだ。悪妻の定義としては、妻のうち
品行の悪いものをいうとある。

三大悪妻とは、クサンティッペ(ソクラテスの妻)、
コンスタンツェモーツァルト(モーツァルトの妻)
ソフィアトルストイ(トルストイの妻)がそうで、
彼女たちを悪妻とする根拠は過度の浪費、賭博好き、
不倫、夫に対する暴力などが挙げられている。
つまり、金銭的な問題と夫に対する愛情の欠如が
悪妻とされているのである。

ソクラテスの言葉に、「セミは幸せだ。なぜなら物を
言わない妻がいるからだ」や「ぜひ結婚しなさい。
良い妻を持てば幸せになれるし、悪い妻を持てば
私のように哲学者になれる」。

ここまで書いて、待てよ、問題は女性の側だけに
あるのか。悪夫というのはないのかと疑問が湧く。
調べてみると、菊池寛の言葉に「悪妻は百年の不作
という。しかし女性にとって悪夫は百年の飢饉である」
と述べている。演歌にも「芸のためなら女房も泣かす
・・・酒や酒買うてこい」などもあるから、出来た女房に
悪夫という組み合わせもあるということになる。

組み合わせとしては、良夫良妻、良夫悪妻、悪夫良妻、
悪夫悪妻の四通りであるから、最初の良、良の組み合わせ
以外は何がしかの辛抱と、諦めの気持ちで結婚生活を
続けるか、別れるしかないのかもしれない。

与謝野鉄幹の「妻を娶らば才長けて見目麗しく情けあり」。
頭が良くて、美人で情がある三拍子揃った女性を妻にもらえ
と言っているが、それも、優しくて甲斐性のある男前が
言うなら許しもしようとなる。

要するに、悪妻とは夫にとって不都合な女性を言うのであろう。
たとえ、不美人であっても料理が下手であっても、亭主が
「うちの女房が一番」と言わせる女性は、悪妻の範疇になく
紛れも無く良妻であろう。

結婚生活というものは、摩訶不思議な営みである。
片方が出れば引っ込み、多くを語れば黙す。
両方が同じ行いを主張すれば衝突する。利口な方が一歩
退けば円く納まる。その役を妻がやることによって良妻への
道は拓けるのではないだろうか。

孫悟空は夫、妻がお釈迦様であれば、夫はキント雲に乗り
自由に空を飛びまわっていると自己満足し、その実、手の平
の上で転がしている妻は陰でほくそ笑む。
”外面如菩薩内面如夜叉”的な良妻を装う、こんな私って
本当は悪妻なのかな?。

新郎新婦を見ながら、これからの山あり谷ありの結婚生活を
良夫良妻を目指し、お互い助け合って幸せな家庭を築いて
いって欲しいと願うばかりである。
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2010年05月17日

5月17日は高血圧の日

今日、5月17日は高血圧の日だそうだ。
今朝の産経新聞の4面を使って大々的に
取り上げていた。

4000万人の高血圧の患者さんが居るそうで、
予備軍を含めるとどれくらいの数になるのか。
800万人が治療を受けているそうである。
俄かに信じ難いが、一家に一人は高血圧の
人が居る計算になるのだから驚きである。

高血圧は心臓病や脳卒中を引き起こすと
言われ、その自覚の無さからサイレントキラー
(静かな殺し屋)と言われている。
高血圧の要因としては、生活習慣からくる
食の欧米化に始まり、肥満、喫煙、飲酒、
塩分の採り過ぎ、睡眠不足など、色々な
ことが考えられる。

人は何故病気になるのか。
高齢化による各部分の抵抗力が弱まり、
そこに病原体が入り込む。このことは
理解できる。
しかし、それなら若い人の病気は説明が
つかないではないか。老人よりも若者のほうが
全てにおいて丈夫にできているはずである。
それなのに若い人でも病気に罹る。
このあたりのメカニズムは私の思考回路では
解読できない。

私は定期的に検診を受けているし、献血もしている。
そうして自分の健康状態を表すデータを目にする。
それによって、これからこうなっていくであろうとの
予測ができるのである。
しかし現状ではそれらの自覚症状は感じられない。

仕事柄、アルコール、睡眠不足、深夜の食事、
ストレスなど、条件としては高血圧予備軍に
入っていてもおかしくない環境で生活している。
これまで薬いらず、病院知らずで来れたのは
単に運が良かっただけなのだろうか。

自分のこれまでの人生を振り返ってみると、
子育ての期間以外はずっと働いてきた。
”貧乏は達者の基”ではないが、忙しく
立ち働くことにより、健康で来れたのかもしれない。
性格的にも物事をネガティブに捉えることが
ないので、これも良いほうに作用しているのかも。

現在の悩みといえば、肥満を少しでも解消しようと
自分なりに努力をしているのだが、悲しいかな
結果がでない。体重は落ちない代わりに体力は
付く。「需要と供給のバランスの問題でしょう。
夜中に食べるのを控えたら」と言われるのだが、
何を食べても美味しいのだから困る。

今日の記事を見て、改めて健康のことについて
色々と考えてみた。
今の私には”腹八分に医者いらず”を肝に銘じる
ことが、健康と減量の二兎を得る得策だという
結論に達した。

今年は”努力の継続”を目標として、若い頃には
戻るべくもないが、少しでも近づけるように
食べて減量という無理難題にチャレンジしている。
粉骨砕身、額に汗する毎日を送っている。

ついでながら、粉骨砕身を電子辞書で引いたら
「粉骨妻新、入り婿は皮ばかり」という古川柳が
参考としてあった。 オー合点。


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2010年05月13日

バースディから母の日にかけて思った事

9日はハハの日であった。
5月8日が私の誕生日であるから、母の日と
重なることがある。
子供たちも安上がりにつくように?、両方を
一遍に祝ってくれることがある。

京都の美香からは、孫の写真とともに
メッセージカードを送ってきた。
次男の剛士はケーキを抱え、何の連絡もなしに
コッソリ帰って来た。私の邪推であるがお祝い
ついでに、ウマイものにでもありつこうと思った
のかしらん。

ドッコイ、土日は予約のお客様でゴッタがえして
いたから、食べに行きたくてもそのような時間が
全く無かった。本人も心得たもので日曜は昼から
野球のユニフォームに着替えて出掛けて行き、
夜はお店を手伝ってくれた。
3組の団体さんを接待し、女の子を先に返して
2人で後片付けをして終わったのはいつもの
時間であった。

翌10日は朝から雨。昼から6月の同級生との
旅行(釜山行き)の打ち合わせでアッちゃん宅へ。
それを終わらせ、黒崎の知人のブティック20周年
記念セールに顔を出す。よく頑張ったなーと思う。
いつものことであるが、気に入ったものは値が張る。
数着買い求めたが、その内の一着分を私の
「誕生祝いとしてだしてやる」と家人。
ナケナシの持ち金の中からの支出であるから
気の毒やら、済まないやら。オメデトウの一言も
なかったので今年は何もなしかと思っていたら
このサプライズであった。

”持つべきは亭主殿”。愛想は悪いし、優しい言葉など
掛けてもらったことはないに等しいのだが、タマーに
ニヤっとするようなことをしてくれる。
この私に対しての優しさは何なのであろうかと考える。
本人の下心ありの資質なのであろうか?、はたまた、
見えるものの向こう側にあるものを、掴み出して
こなければ理解できないような深謀遠慮の持ち主なのか。
本人曰く、辛抱・遠慮ぎみですよと笑う。
私の思考回路はいたってシンプルに出来ているので
向こう側は見えないし、掘り下げて考えることもない。

しかし、よく考えてみると、大切なものほど目には見えない。
例えば、神様も仏様も愛も心も空気もetc。
見えないものには、哲学でも解けない謎がある。
そういえば、夫婦の絆もそうかもしれない。
目に見えない赤い糸?(ひも、ロープ、鎖)で繋がって
いるのだろうが、これなどは良くなればこれよりいいもの
はないし、その反対では最悪である

海の向こうには、give and takeという言葉があるが、
こちらには語らずとも、求めずとも"以心伝心"という心を
もって心に伝えるという素晴らしい言葉がある。

私もこうありたい。しかし欲張りなため、愛の一方通行が
いいなとも思う(勿論のこと、戴く側に座っております)。
丁度、夜道で足元を提灯で照らしてくれるような
心遣いが心地よいのだ。
但し、提灯持ちが躓くようでは絵にならないのであるが。

今年も私にとっていいバースディと母の日であった。




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2010年05月01日

幸福について考える

本日(29日)よりゴールデンウィークの始まりである。
海外への出国ラッシュや、高速道路の渋滞、各地
での色々なイベントなど、毎年見る光景である。

この4月はアッという間に過ぎた感じがする。
忙しかったせいなのだろうか。これではボケる暇など
ないなと思いながら健康で働けることに感謝している。

今日は昼からサウナに浸かり、帰って来ての一杯の
ビールの美味しいこと。

ニュースで政府が“幸福度”を検討しているとあった。
「あなたは幸せですか」とのインタビューに大半の人が
幸福と答えていた。又、それには何が必要かとの問いに
年金、子育ての環境、経済、夢の実現など様々な答えが
あった。日本の幸福度は10点満点の6,5で欧米諸国と
比べても低かった。ブータンは9.7で国民のほとんどが
幸福と感じているという。
GDPは日本の20分の1だそうで、これからすると経済的な
ものが幸福度を押し上げているとは思えない。
貧しい国であるが、人と人との繋がりを大切にし、物質的な
ものではなく、宗教観や精神的なものを大切にすることが
幸福度を上げていると感じた。
日本は幸福と感じることが出来ないような住みにくい国
なのであろうか。

幸福とは、”心が満ち足りていること、そのさま”とある。
逆の不幸は”幸福でないこと”で明快である。
心を引いて見ると、”人間の精神作用のもとになるもの
(知識、感情、意思の総体)”とある。
これからいくと、精神作用のもとになるものが及第点で
あれば幸福と感じることができるのか。
物事はそれ程単純に割り切れるものでないから難しい。

例えば、結婚は幸福の頂点であろうが、不幸の始まりかも
知れないし、離婚は不幸のどん底であっても、這い上がって
新たな幸福を掴むキッカケにもなり得るのである。

個人差はあろうが、要は何事にも喜びを感じるような感性を
持って生きていくということになるのであろう。
働くことは生活の糧を得る手段であるが、「常に歩き、常に
働くは養生なるべし」とあるように、健康なるが故に働ける
のであるし、働くことにより幸福と感じることが手に入る。

長男が「ボクはトイレの掃除は苦にしない。便器磨きは心磨きと
思っている」といっていた。これもイヤイヤするのであれば辛い
ことであろうが、お客様に気持ちよく使ってもらうためにすると
いう気持ちであれば、磨く手にも力が入るであろう。

 番組を見ていると「貴女は幸福ですか?」と問うてきた。
すかさず「勿論」と答え、「貴方は?」と返すと、二ヤッと
笑って答えなかった。若い頃には「美しい(?)妻と、3人の
可愛い子供に囲まれて、幸せな日々を送っております」や、
子供たちには「オカンを喜ばせてやれ。オカンが嫌うことは
するな」と宣うたのをお忘れか?。その子供達もそれぞれ
独立し、今は2人だけの生活となり、婦唱夫随(?)でやって
いる。貢クンはリタイヤして廃業したが、アッシー君であり、
秘書であり良きアドバイザーであり、主夫(?)であり不平も
不満も口にせず全てを補佐してくれる、私にとって最も都合の
良い存在である。

お陰様で私は仕事、ライオンズをはじめ色々な団体への参加や
活動、プライベートにと全力投球できるのである。
忙しいことを苦にせず喜びとし、健康に感謝しながら生きている。

世間の人のようなゴールデンウィークの楽しみかたは
出来ないが、ささやかではあるが幸福と感じられるようなGWの
過ごし方を考えている。

”忙中に閑あり”これも又、幸福なことだ。
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2010年04月20日

さようなら冬、いらっしゃい春

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2〜3日、冬に逆戻りしたかのような寒い日が続いた。
もう4月の半ばだというのに、北国では桜のツボミの
上に雪が積もっている映像を見た。
九州ではもう桜は終わり、桃や杏の花が咲いている
というのに。

我が家の庭でも、チューリップが散って今はツツジが
赤い小さな花を咲かせている。木々は黄緑の若葉を
付け、庭全体がまるで初々しい新一年生の集まりの
ような光景である。梅ノ木を覗いて見ると、小さな実を
いっぱい付けている。「これで梅酒が一瓶くらいできる
かナ」なんて思ってみたり。

冬が終わり、春になると一斉に植物が芽吹く。
タケノコなどは早くから戴き、皮のままアルミ箔に包み
蒸し焼きにして、ホクホクの柔らかくておいしい物を
食べさせてもらった。
つい先日も、ワラビを料理したのを頂戴した。これも
春を感じさせる一品で、私にとっては旬のものを人様
より戴き、ダイエット中は横に置いといて”食欲の春”
なのである。自分では採る才覚を持ち合わせて
ないので自然ともらい物ばかりとなる。

前々から、家人に「セリを摘んできて」と頼んでいるのに
一向に腰を上げる気配がない。
昼から自由な時間がとれたのでセリを摘みに二人で
出掛けた。去年は菜の花が咲いてた時期に行った気が
したので、少し遅いかなと思って、いつも摘んでいる場所に
行ってみると、草ボーボーで「コリャ駄目だ」と思ったが、
草を掻き分けて目を凝らすと、沢山生えている。
嬉しくなってセッセと摘み取る。

いつも不思議に思うのは、あるところには群生してるのに、
場所がチョッと変わると全く生えてないのである。
さては冬の間、寒さを凌ぐために仲間同士で集まって
おしくら饅頭でもしてたのかしらん。

買い物袋いっぱい摘んで「これだけあればいいだろ、帰ろう」
と家人。欲深い私はもっと採って欲しいのだが引き上げた。
サラダにいれてもいいし、酢の物や、サッと茹でて
ドレッシングをかけて食べても美味しいし、セリの香りが
好きなのだ。

今日は久し振りに小雨の中をウオーキングに行って来た。
あちこちの田んぼにレンゲ草が咲いていた。所々では
もう田植えが始まっていた。早稲なのだろうか。春に
なったんだなーと感じた。帰って来て庭を眺めると、雨に
濡れた若葉が美しい。以前ブログに書いた段柘植は
先日、切り倒されて切り株だけが残っている。
不思議なことに切り株の横には、ナンテンの木が赤い新芽を
出して代役を務めているのである。
拝み石の横のサルスベリも枯れた松の生まれ変わりのように
立っている。こうやって代替わりしていくのだろうか。

人も植物も冬の厳しさに耐えてきたご褒美に、春の暖かく
柔らかな日差しを戴けるのだろう。
私の目には、庭の草花たちが眠りから醒めて、両手を広げ
背伸びしているように映った。


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2010年04月02日

こまんちゃん

約束とは、ある物事について将来にわたって
取り決めるとある。私はこの言葉の意味を
5歳違いの兄から教えてもらった。
兄は次男であることから、小さいほうの
あんちゃんで、こまんちゃんと呼ばれていた。
ハンサムで頭脳明晰、スポーツ万能、兄妹思いの
優しい人で私にとってヒーローだった。

私が初めて兄と約束したのは、高校生の兄が
中学生だった私に「この話は絶対誰にも言わないと
約束できるか」と、言った時だ。その時約束の
意味を知った。「俺は北朝鮮に帰り祖国建国のために
尽くすつもりだ。一緒に海を渡ろう」と、熱い思いを
語った。私は兄の話に感動し一緒に行くことを
約束した。

しかし、兄の思いは親の知るところとなり、父は
烈火の如く怒り、兄はひどく殴られたが、一言の
言い訳や弁解もせず、ボコボコにされた顔を泣いている
私に向けてニヤっと笑っただけだった。私は子供
ながらに約束とは、これ程非情で厳しいものだと
兄から身をもって教えられたのである。
今から考えると、在日朝鮮人二世である青年の
純粋な正義感の発露だったと思っている。
その後、社会人となった兄は朝鮮学校の教員となり
結婚して実家を去った。

兄と再会したのは、私が26歳の時に水商売をしたいと、
当時教員を辞め金融などブローカーのようなことを
していた兄に相談した時だった。兄と共に両親の説得を
試みたが受け入れてもらえず、勘当同然に家を出て
小さなスナックを始めた。
当時は離婚した女性は肩身のせまい思いをしながら、
ひっそりと暮らさなければならなかった時代で、水商売も
同様であった。

お店も順調にいきだした頃、カウンターの隅でいつも
静かに酒を飲む青年がいて、食事の約束をした事があった。
当日、不覚にも寝坊してしまい1時間以上も遅れてしまった。
もう居ないだろうとの思いで駆けつけると、彼はニヤっと
笑って待っていてくれた。約束の意味と彼のニヤっとが兄と
重なり、それが付き合うキッカケとなった。

彼とは考え方や、私の心の中の寂しさと、彼の母親を亡くした
悲しみとの歯車がかみ合い惹かれいった。
兄に彼との結婚を相談すると「日本人の男と朝鮮人の女との
結婚はうまくいかないだろうし、親も絶対に許さないだろう。
しかし何とか頑張ってみるか」と、1年余りかけて両親を
口説き、兄のお蔭で晴れて一緒になる事ができた。
家を建て焼肉屋を開店し、スナックをと、私たちの家庭は
順調に伸びていった。

一方、兄の方は運の悪さや人の良さが災いしたのか、次々と
事業に失敗してその度に借金を申し込みに来た。
堅実に生きる主人は「やめとけ」と私を窘めたが、内緒で
貸し続けた。心の中で約束を守って欲しいと願いながら。
しかしお金に関する約束は全て破られた。

それ以来兄とは疎遠になっていった。又、父の仕事を継いだ
妹の土建会社にも援助したが、これも倒産の憂き目にあい、
私たちは莫大な借金を背負う羽目となり、不動産を処分し
その返済のため10年余りを費やした。返し終えたその頃に
兄が久し振りにお店に訪ねて来たのである。

その時兄は末期ガンで余命幾ばくもなく、別れに来たのだ
とは知る由もなかった。それを知ったのは病院のベッドに
やせ衰えて横たわる兄を見舞った時であった。兄の細く
なった手を握り、叶わぬと知りつつ「退院したら一緒に
故郷を訪ねてみよう」と指切りゲンマンすると、死期の
迫る兄の目から一筋の涙が流れ「連れて行ってくれるか」と
嬉しそうに呟いた。それが兄との永久の別れとなった。

兄が亡くなって10数年の時が経つ。不思議と恨む気には
ならない。
それよりも半世紀ちかく持ち続けた、果たし得なかった望郷の
思いに応えてやれなかった後悔の念ばかりが湧くのである。
最期に約束を破ったのは私の方だから。

「一緒に海を渡ろう」と言った兄との約束を最期まで果たせ
なかった事が私を苦しめる。それ程までに、兄が教えてくれた
約束が私の心を縛るのである。

私に対して約束を破り続けたこまんちゃんの魂が。


今回のブログは産経新聞の主催する”第14回約束エッセー
大賞”に応募した作品を載せました。全国から過去最多の
4856作品が寄せられました。”約束(プロミス)”という
タイトルで1600字以内という規定の中で字数を調整し、
添削を繰り返して仕上げた、私なりの力作だと思っています。
自分を曝け出すようで恥ずかしいのですが
天国にいる兄にレクイエムになればと思って書きました。

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2010年03月27日

ミネハハ、パート1

「MINEHAHA]。この言葉を知ったのは、お店の
お客様のMさんから「是非聞いて欲しい」と
DVDを渡され、それを見てからでした。

本名を松木美音(みね)と言い、3歳から
ピアノを習い、8歳で合唱団に入団。
音楽の基礎をフェリス女子短期大学音楽部
声楽科で学ぶ。
スタジオミュ−ジシャンとして活躍、著名な
歌手のバックコーラスや3000曲以上にもなる
CMソングを歌い「CMソングの女王」としての
地位を築く。1994年に20余年の商業音楽に
ピリオドを打ち、本名が美音であることから
ミネハハに改名。ソロシンガー「MINEHAHA]
としてデビュー。以来、年間90本近くの
コンサートを開く。

歌手として活動している彼女は二束の草鞋を履く。
校長先生がそれだ。そうなったキッカケは
2006年2月に釈迦成道の地、インドのブッタガヤ
で開かれたモニュメント「風の輪」の奉納記念式典
に参加し、お釈迦様が座し、覚りを開いたといわれる
菩提樹の前で歌を披露。
感動に溢れたその会場に、涙を拭いながら歌を
聴いていたダルとディップがいたのです。
この二人のインド人青年の、「貧しい子供たちに
教育を受けさせたい」という情熱に共感し、それが
キッカケとなり、2007年1月に教育ボランティアを
スタートさせ、同地に無料の学校「ミネハハ、ヘルピング、
フリー、エデュケィション、センター」を設立。これを機に
活動の場を海外にも拡げていきます。
現在では、3校となり生徒数も増えています。

又、2008年9月にアメリカ、ワイオミング州のネイティブ
アメリカンの聖地、デヴィルスタワーにおいてダコダ族の
大酋長フーヴォル,ルッキングホース氏より、娘の名前
である「微笑む水」という意味を持つ「MINEHAHA]の
名前を正式に授与された。
以上はインターネットやDVDの中からの文章を抜粋して
まとめたものです。

DVDの”ありがとう地球”の美しい歌声をバックにした
画面を見ながらこの文章を書いています。全編に地球に
ある美しい風景、人、動物の映像が流れています。

このミネハハさんのミニコンサートが、こちらの方で
あるのなら是非聞きに行きたいと思っております。

今回は人物紹介だけで終わってしまいました。
この続きは次回にて。
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2010年03月21日

お悔やみの手紙を書いて

前回のブログをパソコンに打ち込んでいる最中に、
京都のお姑さんが3月4日の17時10分に亡くなった
ことを報せるメールが娘から届きました。
享年62歳、あまりにも早すぎる旅立ちでした。

6日がお葬式とのことでしたが、私は公私ともに
多端な状況にあり、どうしても葬儀に伺えず、やむなく
家人と次男の剛士に行ってもらいました。
お葬式は故人のたっての希望で、近親者とごく親しい
友人だけの家族葬であったとのこと。
故人の93歳になられる実父が健在で、家人に一言
「ワシが代わって逝きたかった」と言われたそうです。
なんと悲しい言葉でしょう。

”親より先立つ不幸なし”と言いますが、親死ね、
子死ね、孫死ねと順番通りにはいかないのが
人生なのでしょう。
連れ合いに先に逝かれること程、悲しいものは
ないとも言います。それも奥様を亡くされるご主人の
悲しみのほうが、その逆よりも数倍大きいような
気がします。独り身になっても女性は輝くけれども、
男性はしぼむとも言われることが、それを現して
いるのかも。これは女性のほうが、環境に順応する
能力が勝っているのかもしれません。

一通りの雑事が片付き、お悔やみの手紙を書こうと
思い立ち、便箋を前にしましたが筆が進みません。
夫婦の成り立ちから、その歴史や思い出を色々思うと
文章が交錯して纏まらないのです。

娘を嫁がせてから8年になりますが、常日頃より
「お義母さんにはとても良くしてもらっており、実の母親の
ように自然体で接しています」と聞かされていました。
孫も生まれ、ヨチヨチ歩きが出来るようになり、「バーバ」と
言えるようになった頃に亡くなられ、子育てを終え
良きジジ、ババとして第二の人生を楽しみにされていた
ことを思うと、同じ母親として、女性として色々なことを
語り合い、末永い家族付き合いを私も楽しみにして
おりましたから、残念でなりません。

夫婦とは、生まれも育った環境も違うどうしが惹かれあって
一緒になり、苦労を共にし、喜びと悲しみを分かち合い、
助け合って月日を重ねて老いて行くのでしょう。
出会いがあれば、必ず別れる日がきます。
逝く人に対して残された人たちは、永遠の別れを現実の
ものとして受け止め、後ろ髪を引かれる思いで柵(しがらみ)
を絶ち、悲しみと思い出を胸に秘めて、いつもの生活に
戻ることが供養になるのではないでしょうか。

どうか心を強く持たれ、ご家族のためにも一日も早く悲しみを
乗り越えられることを、心より願っております。
謹んで奥様のご冥福をお祈り申し上げます。

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2010年03月09日

時の移ろいが現す事柄

前進あるのみで、忙しく立ち振る舞っている私にも、
例えようがないのだけれども、丁度、思考が
タイムスリップして過去に立ち戻ったり、枝分かれして
あちこちに飛ぶ事がある。

例をあげると、朝起きて(昼近くであるが)天気が良いと、
つい布団を干したくなる。そうしながら庭に目をやると、
少しではあるがピンクの花を付けた梅ノ木に焦点が合う。
私たちが”剛士の梅ノ木”と名づけた木である。

これは8年ほど前に、次男が高校を卒業する祈念に
貰った30cmばかりの小枝だったものを、家人が庭に
植えて育てたものである。
時間の経過と共に2mを越す大きさに成長した。

「あれから8年も経つのか」という思いが横にスライドして、
娘が京都に嫁いで行ったことが思い出される。
ついこの間のメールでは、愛犬が死んだと伝えてきたが、
直近のメールでは、お姑さんが余命幾ばくも無い事を
伝えてきた。
我が家に結納の儀で、ご夫婦で来られた時は、どちらも
学校の先生をされており、膨(ふく)よかで品がよく、
とても明るい方でした。

こちらから京都にお邪魔した折も、名所旧跡を案内して
いただき、美味しい京料理を一緒に頂きました。
お二人とも退職され、これから第二の人生を楽しく送れる
はずであったのに、3〜4年前に病に罹られ会うたびに
痩せていかれた。

健康な人にとっての時間の経過というのは、何の不安も
不自由もなく、平々凡々と時を刻んでゆくのであろうが、
病気と闘っている人は、どんなにか辛く、苦しい思いで
一日を生きていかねばならぬかを思うと、出来るなら人生を
巻き戻して元気な時に帰してあげたいと思う。

「人はこの世に生を受けたら、死に向って生きて行くのは
世の常」と、若い頃に聞かされたが、その時はピンと
こなかった。銘々に命のロウソクがあって、それぞれに
大きさや、長さや火の勢いが違い、それにより寿命が決まる
と言う。私が、人の死と対面したのは、20数年前、父が亡く
なった時が初めてのことであった。父の枕元でまだ小学生
だった2人の子供に、「爺ちゃんの人生の最後である死と
いうものをしっかり見届けなさい」と家人は言った。
心電図の表す山形が一直線になった時が、臨終の時で
あった。

ひとの意思に係わりなく、身の上に巡ってくる吉凶禍福を
”運命”と言うが誰もが生まれてすぐに、そのカードを首に
掛けられるのだろう。そして、その有効期間は知らされて
いない。神様だけは判っているのかもしれないが。病気もせず、
天寿を全うして大往生する人は少数で、大半のひとは病気や、
事故、災害などでこの世に未練を残したまま生涯を終える。
亡くなった人の時計はそこで止まるが、残された人は
運命という重い荷を背負って、歩を進めて行かなければ
ならない。それが、生きて行くということだ。
辛い時は歯を食い縛り、泣きたい時は電柱の陰で泣き、
悲しみに耐えなければならない。

時の移ろいは、人にささやかな喜びと、その何倍もの悲しみを
運んでくる。無くしたくない大事な人やものを、津波のように
奪い去っていくのである。
「もっと、生きていたい」と言う思いや、思い遣る気持ちや
愛情が強いほど、悲しみは深い。この世に生を受け、成人し
伴侶を求め、子をなす。子は成長する。と、同時に親は老成
していくのである。

平均寿命からいっても、あと20年。この範囲で私の人生は
終焉を迎えるであろう。振り返って見ると、色んな出来事が
走馬灯のように蘇(よみがえ)る。”負うた子に浅瀬を
教えられ”的なことはよくあるが、”老いては子に従え”は
まだまだ受け入れ難い。

老いたりといえども。バリバリの現役である。
益々、”遺て婆”に磨きをかけて、生き抜く覚悟である。
一つだけ、神妙に3月からパソコンに血圧表を作り、
朝夕記録している。

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2010年02月25日

冬季オリンピックを見て思う事

雑事に感(かま)けて気が付くと、もう前回のブログから
3週間余り過ぎてしまった。

今、冬季オリンピックがカナダのバンクーバーで開催
されています。昼間テレビを見る暇のない私は、
夜中のニュースや、インターネットで選手の活躍を
見ています。

前回のトリノ大会の時は、荒川静香選手の金メダルが
1個だけだったが、今回は銀1、銅2個と頑張っています。
韓国、中国の躍進、ロシヤの凋落が目に付きます。
国自体の勢いもあるでしょうが、国を挙げての組織造りや、
お金の掛け方が成績に現れている気がします。
日本も予算の削減などで、スポーツ環境は恵まれているとは
いえないのでは。

それと、一つ気になったことは、ハーフパイプの国母選手の
腰パン、裾だしの件。色々記事を読んでいると、スノーボードと
いう競技自体が腰パンで滑るのだそうです。
それがスノーボードのファッションだとしても、サングラス、
ネクタイを緩め、裾だし、腰パンが開会式に臨む姿だとは到底
思えません。本人の自覚の無さをさておいても、周囲の人、
特に監督やコーチの人たちが注意し、一般常識やTPO,
ドレスコードなどを教えてやるべきでしょう。
この事で出身校が応援を自粛したとニュースにありましたが、
自身の立ち居振る舞いが何であったのかをよく考えて反省して
欲しいと思います。

同じことが、相撲の横綱朝青龍にも言えるのではないでしょうか。
頂点に立つ者として、備えておくべき心技体の心の部分が未熟で
あったため、何度も不祥事を繰り返し辞めざるをえなくなった。
この事ももう少し協会なり、親方が厳しい指導をして、伝統文化を
弟子の頃から叩き込んでいれば、もっと違った展開になって
いたのでは。力士としては一流だっただけに残念なことである。

明日からは女子のフィギャスケートが始まる。メダルの期待の
掛かる競技である。トリプルアクセルが成功するかどうかが、
メダルの色を決めることになるのだろう。選手の誰もがこの日の
ために技を磨いてきて、頂点に立つことの難しさを感じながらの
演技をしているのだろう。
ましてや、オリンピックは個人対個人は勿論の事、国の威信を
かけた戦いの場となる。

国母選手の「オリンピックが全てとは思っていない」の発言は
4年に1度の、この大会に照準を合わせてきた他の選手には
どう映っているのか。
結果さえ出せば異端児でも構わないといった、行動、考え方は
個人、表現の自由を差し引いたとしても、多くの人を納得させる
ことは難しいのではないでしょうか。

オリンピックという最高の舞台で、持てる力を存分に出しての
演技を私たちに見せて欲しい。そして胸を張り、笑顔で帰って
来てください。
勿論、シャツはズボンの中に入れて。
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2010年02月01日

悲しい報せ

tamako 053.jpg

今日(30日)、京都に嫁いだ娘から、一ト月振りに携帯に
メールが送られてきた。タイトルは”元気?”と書かれていたが、
それは悲しい報せであった。

14年間、娘が飼っていたパグ犬の”玉子(たまご)”が
今朝死んだとの内容だった。3度、今まで聞いた事のない悲鳴の
ような鳴き声がしたので駆けつけると、もう虫の息で、程なく
息を引き取ったという。最期に娘に看取ってもらいたかったのか。

家人にその話をすると、「玉子が死んだら話そうと思っていた
から言うが、もう何年も前に、息子2人とゴルフの練習をして
いた時、ボールを打つ瞬間に玉子が飛び出してきて、アイアンが
顔に当たり血だらけになった。
悲しそうに鳴く玉子を抱いて血を拭いてやりながら、痛かった
ろう,ごめんねゴメンネと何度も謝った。」と話すのである。
不可抗力とはいえ、動物好きで玉子を可愛がっていた家人も、
さぞ辛かったであろう。又、長男も次男も「美香姉ちゃんが
このことを知ったらとても悲しむから3人だけの秘密にしょう」と、
今日まで胸の奥に仕舞ってきたという。

私が玉子に始めて会ったのは、美容の専門学校を出て、京都に
就職していた娘が、お盆に帰省した時、手のひらに乗るくらいの
子犬をバスケットに入れて連れ帰った時だった。初めて見た
印象は、顔は真っ黒、ドングリ眼,鼻は低くなんと不細工な
顔した犬だろうと思った。(娘はパグの中ではハンサムだと
言っていた)

その後に、娘が京都から帰ってきて玉子は家族の一員となった。
ワンルームマンションで飼われていたからか、我が家では家の
中でも、庭でも走り回っていたのを思い出す。2〜3度行方不明
になったこともあった。
家族皆で探し回り、前のレストランの厨房に入り込み、ご馳走に
なっていたり、近くのマーケットで保護されていたりと、
よく心配をかけさせられたものだ。

玉子は、動物が苦手な私が呼ぶと、駆けては来るが、顔を見た
途端に急ブレーキをかけ、Uターンする始末。農協のオバちゃん
には愛想を振りまく(おそらく食べ物を持参してたのでは?)
が、銀行の営業の青年には、帰るまで吼え続けるのである。
「銀行のにーちゃんは、ありゃ、蹴飛ばすか何かしとるぞ」。
犬も可愛がる人はチャンと判っているのだ。ただ、人懐っこく、
食べ物に弱かったから番犬としては、二流以下だったが。

又、娘が帰宅する時、何百メートルも先から乗っている車(赤い
ワーゲンゴルフ)のエンジン音を聞き分け、車庫の横のブロック
塀から、破顔一笑の顔を突き出し喜びを体全体で表していた。

何年、我が家にいただろうか。娘の結婚が決まり「京都の借家
住まいより、こちらの方が環境は良いし、子供が生まれたら
面倒も見れんだろうから、置いていけ」という家人の提案を振り
切り京都に連れて行った。借家住まいから、家を新築して移った
後も共稼ぎであったから、一日中犬小屋に繋がれた生活で
あった。2年おき位に京都に行ったが、見る度に、あれ程
黒かった顔も白髪が混じってきているのか、白くなっていき、
”じいさん犬”になったナーという思いを持った。

最期に会ったのは、去年の秋に孫の1歳の誕生祝いで京都に
行った時であった。
娘と一緒に散歩に出たが、足腰が弱くなっていて歩みものろく、
耳もよく聞こえないという。
動物を飼うということは、いつか死に目にあうことになる。
「それが辛いからもう飼わん。
子供の頃、犬や猫に死なれ、泣きながら亡骸を布でくるみ、
口元にオニギリを置いてやってお墓をつくった」と語る家人の
目は潤んでいた。おそらく娘も泣きながら弔っているだろう。

娘が2歳の頃、「可愛いでしょう」と手のひらにテントウ虫を
乗せたら、卒倒せんばかりに怖がっていた子が、父親のお蔭で
動物好きになり、学校帰りに死に掛かった子猫を、可哀想だから
と拾ってきて隠れて飼ったりするまでになった。庭の拝み石の
裏には、犬、猫、うさぎ、小鳥とお墓がいくつもある。どれも、
別れが辛くて涙しながら作ったものだ。

悲しみは、時が癒してくれるだろうが、今は娘にかけてやる
慰めの言葉が見つからないのである。
黙って肩を抱いてやって、泣くだけ泣かせてやりたい。
600キロも離れた九州と京都の距離を改めて遠いナーと
感じた。娘には傍に居て欲しいとも。



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