2011年12月25日

孫台風パート3&SKYPE

早いものであと1週間ほどで今年も暮れようとしている。
この1年間を振り返ってみると、我が家では皆健康で大過なく
終えようとしている。社会的には3月に東日本大震災がおこり、
多くの人が亡くなり、家や仕事を失った。被災地はこれから
厳しい寒さがやってきます。希望と言う炎を燃やし続け、心を
暖かくして、多くの困難に立ち向かっていってほしいと願って
おります。

お腹が膨れた後は直方に戻りイオンに買い物に。孫たちは
オモチャを買ってあげるというジージーの手を引っ張って、
まるで目的地が判っているかのように人込みの中を進んで行く。
子供には欲しい物を嗅ぎつける嗅覚のようなものが備わって
いるのかもしれない。売り場に到着。二人の孫を観察してみると、
男女の差があって面白い。男の子は欲しい物をサッと見付けて
その場を動こうとしない。一方女の子は欲しい物が多過ぎてか、
なかなか決まらない。それにしても現代のオモチャはICを
駆使していて、年寄りの想像を越えた物が溢れている。
女の子が買ったのは話しかけるとその言葉がそっくり返って
来る動物のぬいぐるみ。男の子は大きなラジコンの4WDで
ある。これは京都の自宅近くの公園で、年長のおにいちゃんが
ラジコンカーで遊んでいて、これが欲しくてしかたがなかった
そうだ。九州のジージーに買ってもらおうと今まで辛抱させて
いたという。サッと決まるはずである。

買い物からの帰りに長男が行きつけの寿司屋さんでお寿司を
とってくれ自宅へ。孫たちは食事をする暇もなくオモチャを
出して遊んでいる。残り少なくなった時間を惜しむかのように
大人たちは話に花が咲く。家人が小振りな段ボール箱を抱えて
来た。聞くと娘へのプレゼントのパソコンだそうだ。
「うちにも1台あるのに」 「ほらみてごらん」と女子連の
話を横で聞きながら「母娘でテレビ電話を楽しんでください。
帰ってセットしたら全部繋がるようにしてあるから」と娘に
手渡す。

10数年前に次男の剛士がオーストラリアに留学した際に、
せめてメールの交換でも出来たらと始めたのが、パソコンに
関わるキッカケとなったらしく、娘にもその楽しさを体験して
もらいたくてプレゼントしたという。私とておぼつかないながら
もこの歳で、なんとかメールやインターネットを楽しめるよう
になった。

そうこうするうちに帰りの時間となった。名残を惜しみながら
「来週の日曜にスカイプやろうネ」と慌しく帰って行った。
今回は障子を破られることもなく、チョッピリ聞き分けが良く
なった孫たちと束の間の再開であった。日曜に間に合うようにと、
スカイプの操作手順を書いた手紙と写真を送ってやった。そして
翌週の日曜の夜、お互いに連絡を取り合い、8時半に始めること
になった。こちらから何回か発進するも繋がらない。携帯で手順
を説明しながらやっているとようやく音声だけが繋がった。
不慣れな娘たちに丁寧に説明していった挙句、画像も映るように
なった。「もう携帯は切っていいョ」とお互い素ッピンのご対面
である。1時間程娘と会話を楽しんだ。

聞くと、このスカイプは何時間話しても無料なので、遠く離れた
孫や、海外の家族との会話を楽しむのに利用されているという。
また、テレビの大画面に繋いで見ることも出来るそうだ。感想と
しては文明の発達の恩恵をこんな形で自分が受けられるとは思っ
てもみなかった。「長生きはするもんだ。なんにでも首を突っ込
んでみるもんだ」と正直思った。この翌週の日曜に孫たちとも
対面したが、ジッとしていないため画面から外れてしまい、
会話にならなかった。もう少し大きくならないと無理かも。
次回は小型のハンドバッグが欲しいという娘のために、展示会を
スカイプでやろうと考えている。

今はお互いに人の手を借りないとうまく操作出来ないけれど、
”習うより慣れろ”である。そのうちパソコンを駆使して楽しむ
日が来ることを願っている。「今のままでは無理じゃない〜」と
いう声が聞こえてきそうだ。
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2011年12月23日

孫台風パート2

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前回、孫たちが帰って来たのが5月であったから、もう半年が
過ぎた。最初は11月に帰省する予定であったが、孫たちの
体調不良のためドタキャンとなり、今年はもう顔を見ることは
叶わないと半分諦めていたのだが、娘もどうしても帳面が消え
ないみたいで、12月の初めに帰ると伝えて来た。
指折り数えながら、迎い入れの準備が済んだ、帰って来る2日
(金)の夕方、直前になって今度は、婿の会社でアクシデントが
起こり、婿から、その対処のため隣県に今から向かうと連絡が
入ったとのこと。時間的にもあちらでは、準備万端整い、婿が
帰って来たらイザ出発といった状況であったと思う。この時、
600Km離れた電話口では言葉に出さずとも母娘の心中たるや、
同じことを考えていたのだと思う。2度までも直前になっての
トラブル続き。行ってはイカン、来るなということか と。

何度も状況報告のメールや電話が入り、本来であれば到着して
いるはずの夜中に「明朝起きたら出発します」と最終報告が
入った。深夜にこの電話を受け、コーヒーを飲みながらの夫婦
の会話。「それほどまでしても帰って来たいんだろうネ」
「帰って来たら予定の見直しをしなければいけないネ」。心配の
種は尽きないままに床につく。翌朝(3日)10時過ぎに電話の
呼び出し音で起こされる。「現在広島を走行中」。眠たい目を
こすりながら起きて来た家人が「それなら午後1時頃には着き
そうだ」。

此処まで書いて1週間が過ぎてしまった。忘年会シーズン到来で、
1年の内で最も忙しい時期に突入してしまい、パソコンの前に
座る間もなく時間だけが過ぎて行った。書けない言い訳はさて
おき、本題に戻ろう。

予定の1時を過ぎてもまだ着かない。メールも電話も返答が無い。
2時近くになってようやく玄関先が騒がしくなった。遅れた理由
を聞いてみると事故による渋滞に遭って、なかなか広島を出られ
なかったそうである。半年ぶりに見る孫たちは顔立ちもしっかり
して大きくなっていた。本来であれば昼から剛士のお店にみんな
で食事に行くはずであったが、それは明日に順延として予定を
聞いてみると、日曜(5日)の夜に帰ると言う。何とも慌しい
里帰りである。土曜の夜は私たちが仕事があるので、一緒に
居る時間は限られてくる。

簡単に昼食を摂り、一人で運転してきた婿を寝かせ、久し振り
に娘と話に花が咲く。この時間を持ちたくて帰って来るのだろう。
母娘の関係は、同性であり、母親としての先輩後輩であるので、
話は尽きない。娘の話を聞いてやりながら、出勤の準備に取り
掛かる。いつもより遅れてお店へ。土曜日とあって大忙し。
帰りは朝の3時半過ぎ。

早寝早起きの孫たちは夜は7時に寝て、朝は7時には起きると
言う。私たちの生活ではその時間は真夜中なのである。日曜の
朝もいつものように起きて母親に「ジージーとバーバーはまだー」
と催促するのである。今回はなにかをするという時間が全く
取れないので、昼から皆で剛士が勤めるお店で食事をし、帰りに
イオンに寄ってオモチャや服を買ってやる約束である。それと
家人が娘にパソコンをプレゼントするという。何故かと言うと
SKYPEを使ってテレビ電話を私と娘が出来るようにと準備して
いるとのこと。この件に関しては次回詳しく書くことにする。

先を急ぐ孫たちに大人たちはせかされながら、ベビーシートを
積み換え、長男も合流していざ出発。40分程でお店に到着。
剛士は忙しく働いていてなかなか席に来て一緒に焼肉を食べる
ことが出来ない。娘たちも子供連れでの外食は出来ず久し振りの
焼肉だとのこと。孫たちもムズがったり、騒いだりもせずに
焼肉デビューである。肉を焼いてやりながら観察してみると、
娘たちは孫に食べさせようと熱い物はフーフーしたり、小さく
切って食べやすくしたり、しっかり親を演じている。かっては
私もこうやって子供を育ててきたのである。私が育てて母親に
なった娘が孫を育てているという、この世代間の不思議さ。
時代と言うフィルムの映像が変わるたびに世代交代が行われ、
何らかの意思が親から子へ、子から孫へと営々と引き継がれて
行くのであろう。この孫たちも京都と鞍手のDNAを次の世代に
持ち越すだろう。

腹が太ったら次はオモチャ売り場である。全くの誤算は今日が
日曜で時間は夕方の5時だということ。まず、駐車場が満杯で
なかなか車が止められない。人込みをかき分けながらオモチャ
売り場へ。

これから先の3〜4時間の出来事はパート3で書くことにしよう。
どうも頭の中が仕事モードから抜け切れてないみたいで、只、
字面を並べて紙面を埋めていくだけの脈絡のない文章になって
しまった。反省!!。
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2011年11月18日

週末の雨

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ここのところ毎週のように週末に雨が降っている。
今日(18日)も朝から一日中降っている。予報では明日も
傘マークが出ている。

雨が降ると淋しく悲しくなる。特に寒くなってからの雨は
尚更だ。先週の金曜日(11日)に里帰りする予定であった
娘たちは、孫たちの体調の急変のためにそれは叶わなかった。
その日の朝に子供たちの体調不良を伝える電話があり、
「もしかしたら帰れないかもしれない」と伝えて来た。
夕方に「帰れそうにない」と沈んだ声で断りの電話があった。
仕方のないことだと慰めて電話を切ったが、里帰り出来ない
悲しさのあまり、娘の心の中に冷たい雨が降っていたのでは
なかろうか。随分前から婿の仕事を調整してもらい、日にちを
決めて皆が楽しみにしていたからその思いは心中察して余りある。

私は少し大きな声を出せば届く距離の川向うに実家があるし、
家人の両親も早くに亡くなったので里帰りというものを
したことがない。過去に、娘の結婚が決まった時に周りから
「よく京都に出す気になったネ」と言われた。今になって
みるとこういうことであったかと判る気がする。娘とて同じ
思いであろうが、人を好きになるのは場所を選ばないから
仕方が無い。遠ければ遠いほど帰りたいとの想いは強くなるの
であろう。

5月に帰って来たときは皆で芦屋の海に行った。良い天気の
暖かい一日で、ずぶ濡れになって浜辺で遊ぶといった何げない
光景であったが、思い返してみるとあれが幸せなのだと思う。
誰一人病気しても、欠けても駄目だし、仲が悪けりゃ尚更駄目
だし、幸せとは、一瞬いっしゅんを大切にして、それを積み
重ねていった結果の、皆の気持ちを和ませる暖かい雰囲気を
言うのであろう。

“幸せは不幸になってはじめて判る”と言うが、この文を
書きながら「どこかでこんな事を書いたナ」と思い返し、
探してみると昨年5月の“幸福について考える”のブログの
中に“例えば、結婚は幸福の頂点であろうが、不幸の始まり
かも知れないし、離婚は不幸のどん底であっても、這い上が
って新たな幸福を掴むキッカケにもなり得るのである”と
書いている。このように、一つの例を挙げて考えてみても、
その人の置かれた立場や、ものの考え方によって幸・不幸に
分れるのだから、幸せとは、決まった色や、形というのは
無いのかもしれない。それぞれの人の、それぞれの尺度で
決まるものであろうか。

徳川家康の“不自由を常と思えば不足なし”と思えれば、
大概の物は不幸には値しないことになろう。親もお金も
自由な時間も連れ合いも、有るにこしたことはない。
しかし、親も連れ合いもいつかは別れが来るし、お金と自由は
相反する位置にあるような気がする。ただ、人には欲という
ものがあって、水が低きに流れる如く、無いよりも有る方に、
苦より楽に走る性質を持っている。

私は文明・文化の発達が決して人々を幸せにはしていないと
考えているのだが、例えばアナログ人間の私が使うパソコンは
便利な道具である。知りたいと思う世の中の情報は瞬時にして
入手でき、同時に欲望をも満たしてくれる代物である。しかし、
良いことばかりではない。このシステムは人々から我慢や辛抱
するという心を奪っているように思えてならない。バーチャルと
現実の世界の区別がつかなかったり、匿名性をいいことに相手の
ことを思い遣りもせず、言いたい放題で中傷するし、誤った
情報が独り歩きする危険性も孕んでいる。原子力と同じで
使い方次第では良くも悪くもなる代物であろう。

一旦、甘い水を飲んだホタルはもう苦い水は飲めなのかも
しれない。然し苦い水を飲むと言う我慢・辛抱があるから
こその甘い水であろう。その順序さえ自分で認識し、訓練が
できていれば、例え逆況にあったとしても、それをバネに
して苦難に立ち向かうことが出来るのではないか。年と共に
段々そのようなパワーも気力も薄れてきてはいるが、
“病は気から ”である。老骨に鞭打ち、気力を奮い立たせ
今日も頑張るゾと、一日中降り続く雨で萎えそうになって
いた気持ちが、文章を書くうちに序じょに元気になっていった。
“雨降って地固まる”とはよく言ったものだ。

因みに、明日(19日)は次男剛士の誕生日である。取り
敢えずお祝いのメールをしておかなくっちゃー。

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2011年11月06日

鷹取山練習登山

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先月の30日(日)に続き、今日(6日)に順延になっていた
直方ライオンズクラブ主催の登山が雨のために中止になった。
ここ数週間は週末に雨が降る事が多く、この様な時に限って
天気予報は当たるのである。楽しみにしていたのであるが、
アウトドアーの場合、天気に左右されるのは仕方の無いことだ。

普段、私はアウトドアスポーツを定期的には行っていない。
だから、取って付けたように練習をしないとやれるかどうか
心配でならない。このように取って付けたところで、何も
変わらないのは自身が一番判っていることではある。なので、
取り巻き、特に家人には迷惑を掛けることになる。自転車にも
行かれず私に付き合う事になる。10月もお店の5周年の
準備の為に思うように走れなかったと嘆いていた。

実は今回の登山の為に秘かに練習登山を、先月の27日(木)
と3日(木)の祭日に行った。27日は素晴らしい秋晴れの
スポーツ日和であった。7月以来の登山とあって自信は
無かったのだが、ここで登っておかなければ他に時間が
取れないのである。体育祭で打った膝も心配であったし、
いつもであれば下の駐車場から登るのであるが、今回は
上まで車で行き、そこから登り始めることになった。

あちこちで紅葉の便りが聞かれるが、ここは標高が低いせいか
木々はまだ色付いていない。山の所どころに赤や黄色が点在
している位である。冷たく澄んだ空気の中を黙々と登って行く。
正直なところ薙野の休憩所まではきつかった。あまりにも間隔
が空きすぎて、体のほうが登山のことを全く忘れているようだ。
休憩所で目の前の桜の紅葉を愛でながら体を休め、上野越へ
と向かう。

私にとってはこの間が一番の難所である。何回登っても楽に
なる事はない。急坂で岩がゴツゴツしていて登りにくい。
中間のいつも腰掛ける岩の所まで何とか登り休憩。クマザサ
の所までは目前であるが、無理は禁物である。上野越まで
来ると立派な地図が新しく設置してある。いつもの温度計を
探すと上野越の標識の柱に移動していた。温度は13度。
ここからは毎度のことであるが私が先頭を歩く。坂道では
待ってもらいながら登るのであるが、道が少し平らになると
もう天下を取った気分になる。泣いたカラスはどこにも
いないのである。

頂上に着くと下から見た時は福知山に雲が掛かっていたの
だが、見上げると素晴らしい青空のもとに福知山を始め
山々はそびえている。その反面、下界は少し霞んでいた。
何故だかは判らないが頂上に着くとすぐに弁当をひろげる。
食事中は気温の割にはあまり寒さを感じなかった。この
城跡では水仙の花が満開の頃登ったことがあったから
12月の頃であろうか。とても寒かった記憶がある。

登山はきつい目に遭っても、登り切ったという達成感からか、
来て良かった、また来ようと思うから不思議だ。下山しながら
こうして健康で歩けることに感謝し、いつまでも夫婦揃って
登山が出来たらいいなと思う。この日は心配していた程の
ことはなくちゃんと歩けた。しかし、練習登山の甲斐なく、
30日は金曜から3日連続の雨で、早々と土曜には中止、
翌週に順延となり、3日に練習登山したのにこれも又、
土日の雨の為ついに中止となった。

ライオンズの鷹取山登山は叶わなかったが、自分の中では
ノルマは果たした気分である。しかし、次にはもうボーリ
ングが控えている。これもなんとか時間をやりくりして練習
に行かなければ。その前に京都から娘夫婦が帰って来る。
その準備もしなければならないから大忙しである。

アッ、もう一つ忘れていた。明日(7日)、姉と家人と3人
でゴルフに行かなければならない。今の私には、ライオンズ
と迎賓館のママとスポーツウーマンの3つをこなすには、
身一つでは到底足りそうにない。

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2011年10月30日

開店5周年記念感謝の宴

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私は人生の3分の2をこの仕事に携わってきた。子育ての
何年間かはお休みをしたけれども、元気だけが取り柄で病気
知らずの私は自分の都合でお店を休んだという記憶が無い。
ニュー香港時代に3年間ほどお勤めをしたがその他はオーナー
としてこれまでやってきた。只、何周年といったイベントを
したことがない。性格なのか、このような催しが嫌いなのか
とかではなく、お客様に迷惑をお掛けするのではないかという
のが気持ちの中にあって、それが引っ掛かりどうしても二の足を
踏むことになり実現に至らなかったというのが正直なところ
かもしれない。

何故5周年を思い立ったかを考えてみると、年齢的なものが
あるのかもしれない。5年前にこのお店を立ち上げる時も、
行くか、退くか、考えたものである。自身の集大成として
最後の事業という位置づけで踏み出した記憶がある。今回を
逃すと次は10周年しかない。自分の年齢を指折り数えてみると、
今回5周年をやっておかないと次をやれる保証はどこにもない
のである。それと長男が2年ぶりにお店に戻り側面的な応援を
してくれたのも要因の一つに挙げられるだろう。パソコン関係を
一手に引き受けてくれ、こちらが気が付かない細かい所に気を
配ってくれた。今回、このイベントに関わってくれたフロアー
スタッフ、厨房、その他の方々に「皆様のお陰で無事終える
ことが出来ました。感謝を込めてお礼を申し上げます」。
これが5周年を終え、平常に戻った今の私の正直な気持ちです。

どんな小さな催しであれ、それを主催するとなるとそれなりの
準備と時間が掛かります。自分の中では春ごろから構想は練って
いました。こういう経済が停滞している時代ですから、あまり
派手にも出来ず、かといって平凡なものにはしたくないといった
相反する考えが頭の中を堂々巡り。そうこうするうちに9月の
中頃からお尻に火が付き始めました。

案内状の作成から始まり、文面のチェック、修正、封筒詰め、
送付。お客様に出す食事のメニュー、厨房の人員、お土産、
店内の傷んだ箇所の修理を業者に依頼、当日のマニュアルなど
次から次へと課題が噴出。一つ一つを片付けていきながら平常の
営業をこなしていく。特に10月に入ってからは、ライオンズの
行事や、その他の用事で全く日曜もない有り様。前日の日曜
(23日)に最終チェックを済ませ本番へ。

当日は早めに出勤し、手落ちが無いか見て回り、厨房で料理の
最終打ち合わせ、スタッフとのミーティングをするうち、続々と
花が届く。皆で記念撮影をしようとしていたら最初のお客様の
来店である。「いらっしゃいませー」いつもに増して元気な声
で迎え入れる。それから先はてんてこ舞いのフル稼働である。
私は忙しければ忙しいほどファイトが湧く性格なので、スタッ
フや厨房に指示を出し、お客様に挨拶をし、ぬかりが無いかを
目配り気配りし、嬉々として走り回っている。私たちの商売は
お客様があって初めて成り立つもので、こうして5周年を祝って
来店してくださるお客様とは末長くお付き合いをして頂きたい
と心から願っている。

このような3日間が過ぎ、毎日終わって帰るのが午前3時を
過ぎていた。宴は終わった。快い疲労感の中には達成した
喜びと、至らなかった反省とが入り混じっている。今日
(30日)は天気が良ければ鷹取山登山のはずであった。
金曜から今日まで3日間雨が降り続き中止となり、来週の
日曜に順延となった。不謹慎ではあるが私にとっていい
休養日となった。朝、早く起きて作文の前半を書き、昼から
久し振りのサウナで心身ともにリラックスする。帰って来る
とチャンと夕食が出来ていて、ビールを飲みながら久し振り
の会話と食事を楽しむ。深夜までこの3日間を振り返りながら、
作文を書いては消しを繰り返しながら仕上げている。

5周年が終わったということは新たに10周年に向かっての
第一歩を踏み出したと言う事である。過ぎ去った過去は
これからやってくる未来のための布石である。時間はひと時
でも停滞することはない。この一瞬に最良の生き方を選択し、
明日を迎えなければならない。それが生きている証であり、
存在の意味でもあるからだ。

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2011年10月12日

ある秋の日の出来事

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10月7日(金)が長男の誕生日であることをすっかり忘れていた。
と言うのもHappy Birthday to Youの曲と共にローソクの
灯ったケーキが出て来たからだった。
ケーキに飾られた39と形取ったローソクを見て思い出した
のである。チーフとして勤める長男にスタッフからの
プレゼントのようだ。皆で合唱する中、戸惑いとテレ笑いを
浮かべながら促されてローソクの火を吹き消す。「この歳に
なって誕生ケーキのローソクの火を消すのはチョッピリ恥ず
かしいです」とコメント。「でも嬉しいです ありがとう」。

息子が39歳なら我々の結婚生活は40年を越すことになる。
振り返ってみれば短いようでとても長い時間の経過である。
出会いから結婚・長男、長女の出産・家を建て・焼肉屋を開店
・次男の誕生・連れ合いの事業の独立・HiBrid開店・
エトセトラ・・・オイルショックやバブル時代と好・不景気の
激動期を力を合わせて乗り越え、妹の子供も含め4人の子供を
育て上げた。現在、子供たちは皆、自立して各々の生活を
している。二人だけの生活は、時々子供や孫たちが帰って来て
賑わいをみせる他は、粛々と物事をこなしていくというもので
ある。

只、私自身の日々を振り返ってみると、時間に追われまくって、
例えば9日(日)の行動を記すと、睡眠3時間で8時前に起床。
準備をして姉と一緒に町内体育祭の会場へ。10時半から
“ゲートボール”に出場。参加賞と弁当を頂いてお店へ。
12時よりスタッフと共にユメニティ大ホールへ。秋ますおの
歌謡ショーと知り合いの奥さん方の歌を聴く。ショーの途中
ではあるが、3時前に此処を出て長男も含め総勢7人、家人の
運転する車で小倉南区にある”筑豊ラーメン山小屋“へ。

何故ここかと言うと、1カ月ほど前から次男の剛士がマネー
ジャーとして働いているので、偵察がてらスタッフを誘って
の食事会なのである。サラリーマンをしていた次男が、全く
畑違いの仕事に就いたことに驚くやら、イメージが湧かない
やら、「これは仕事ぶりを見てみなくては」。お店に入ると
「いらっしゃいませー」と大きく元気な声と、黒い大きな
前掛けをした素敵な笑顔の剛士が出迎えてくれた。

焼肉のテーブルに案内され、「売上に協力」と言う剛士も
一緒に焼肉を堪能する。「兄ちゃん誕生日おめでとう」と
ポチ袋を兄に渡していた。聞くと、父親と2人分入っていると
言う。「僕だって格好付ける時はヤルよ」だって。腹の中で
「君も少しは大人になったナー」と嬉しくなる。2人は一回り
違いのネズミ年である。お腹一杯になった上にラーメンを食す
という初めての経験もした。又、剛士の仕事ぶりも見せて
もらった。体育会のノリでテキパキとスタッフの男の子に
指示を出している。ラーメン作りからスタッフのこと、営業に
まで全てに目配り、気配りをしなければならない厳しい立場に
立っている。

なんとなく安心するやら、久し振りにゆったりとした楽しい
時間を過ごした。お店に帰って来たのが6時半。明日(10日)
は鷹取山登山だ。ヨーコさん親子と4人で登る予定である。
10時半に迎えに行くことを約束して解散。帰って風呂から
上がると左足に異変が。痛みと共に腫れているのだ。原因と
して考えられるのは、体育祭のゲームの最中に落ちたサン
グラスを拾う際に、こけて膝を打った。その時は何とも無か
ったのだが、時間の経過と共に腫れて来たみたいだ。ドジな
性格と安全に対する認識の無さが為せる業である。泣く泣く
事情説明と断りの電話をヨーコさんに。私も含めて皆が楽しみ
にしていたのに。ごめんなさい。

朝、目が覚めると家人はもう自転車に出掛けている。少しは
痛みも腫れも引いてるみたいだ。あまり動き回るのもよくない
と考えて、一人、大人しくパソコンの前に座ってキーを打って
いる私。
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2011年10月05日

同窓生との秋の小旅行

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9月25日〜26日に同窓生(男5人、女10人)と1泊2日の小旅行を
楽しんだ。途中、熊本在住の“元ポリスマン香川”と落ち合い、
熊本自然休養林“菊池渓谷”で景観を楽しむ。皆でワイワイ
ガヤガヤおしゃべりを楽しみながら森の中を散策。木々や風や
川の流れは人を元気にしてくれ、癒してくれるものだと実感する。
胸一杯に息を吸い込み森林浴を、時には飛沫浴を楽しみ、健康で
自然に触れられることに感謝。日常、時間に追われる私にとって、
ここはまさに安らぎの空間である。

私はこの美しさをカメラに収めるため、シャッターチャンスを
逃すまいと皆より一歩遅れて周りに目を配り、郷愁に浸りながら
ゆっくりと歩を進める。10分程の道行きで「私 歩けな〜い」、
「息が上がってもうダメ〜」とGiveUpの声が聞こえ、
Uターンするおデブの・・・?。自然道を歩く人 さまざま!!。

ここから、阿蘇郡小国町西里にある“遊水峡”の水辺で遊び水と
戯れる。高さ20mのカッパの滝。天気のいい日には滝に虹が
掛かるそうで、勇壮なというより、女の滝を連想させる。
バンガローもあり夏はキャンプも楽しめそうだ。このあと宿へ
直行。

今回の旅行は今までとは少し趣向を変え、貸し切りバスではなく
車3台出し、食事は全て外で摂り、夜の宴会も無く、温泉にたっぷり
浸った後は、一部屋に全員が集まり夜の耽るのも忘れて話し込む。
このような企画であった。この時ばかりは古希が目前なんてことは
皆忘れて、小・中学生に戻り、思い出話に花を咲かせ、現在、未来
(老後)まで、話の幅が半世紀に及ぶのである。例によって女性陣は
顔のシワを更にクチャクチャにして笑い転げる。しゃべる順序は女が
先行して男は後を追っかける。多勢に無勢である。悠長な男性陣に
対して女は機関銃の如く喋り倒すのである。若干名、敢えて誰とは
言わないが、しとやかで品性宜しき?ご婦人も居るにはいるのだが。

私たちのこの集いは2年に1回の同窓会を催し、年1回の小旅行・
忘年会を楽しむ。懐かしい友が帰省すると連絡があり近場で集合
して旧交を温める。つい最近(1か月前)も中学卒業以来、50数年
ぶりに武谷ケンちゃんと再会した。感極まった表情で彼曰く「もう
死ぬまで会えないならそれはそれで仕方ないと思った。小、中学校
の思い出を胸に秘めたまま人生を終わらせようと思っていたが、
梶栗にTelしたらこのような席を設けてもらい嬉しいかぎり
です」と。この時も12〜3人集まった。酒の席で、男はともかくも
女の名前が判らない様子。銘々が自己紹介すると「あ〜」となんと
なく思い出したようで、宴たけなわの頃には子供のころの思い出と
共に名前と顔が一致するようになった。時間が掛かるのは無理も
ない。昔 マドンナ・プリンセスがデブやシワだらけのただの
オバンに化けているのだから。

旅行前日に仕事で遅くなり、1時間も寝ずに車に乗り込んだ私は
リースキャット(借りてきたニャンコ)であった。旅行から帰りの
車の中での会話。「お前、行きは睡眠不足で車に乗ってきて大人
しく無口だったが、元気になった帰りはうるさいの〜。これからの
旅行は一睡もせず往復 静かに寝てろ!!」「お黙り!!誰のお蔭
で賑わっとると思うとんじゃー」「すんましぇ〜ん」爆笑の車中の
会話である。皆、いつまでも元気で又、旅行に行きたいネー。
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2011年09月19日

私にとってのスポーツの秋

golf_mama.jpg

今日(19日)は台風15号の影響なのか冷たく強い風が
吹いている。後4日で「暑さ寒さも彼岸まで」と言われる
秋分の日である。

食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋、楽しみは山ほどある。
食欲と読書はそれなりにおいしいものを食べ、本もナイト
キャップ代わりに読んでいる。が、私に欠けているのは
運動である。ライオンズ関係だけでもパークゴルフ、鷹取山
登山、ゴルフ、と続いてある。去る今月の10日(土)に
植木の桜堤公園でパークゴルフ大会が開かれた。成績は恥ず
かしながらのBB賞であった。何の練習もしないのである
から当然の結果であろう。

考えるに、私は典型的なスポーツ音痴なのだ。これは自信を
持って言える。色んなものに首を突っ込むのだが、運動に
関しては、どれも人様に自慢出来るものはない。「上手になる、
強くなることが自信に繋がり、好きで楽しくなることの秘訣」
だと言われるのであるが、私の場合、努力が不足しているので
その域まで到達しないのである。私の家族はスポーツを勝負と
して捉え、勝つためにはいかにあるべきかを第一に考えている
からそのための努力は怠らない。私にはその精神が欠けていて、
負けて悔しいという気持ちにあまりならない。だから練習にも
熱が入らないし、継続しないのであろう。

ゴルフに関しても何年もクラブを握っていなかったのだが、
先月から週一で練習場に通っている。これも、ライオンズの
ゴルフ同好会に籍だけ置いて参加はしたことがなかったのだが、
一念発起でこの秋からコースデビューする予定でいる。当然、
周りに迷惑を掛けるゴルフとなるであろうから、家人に
父兄同伴してもらおうと考えている。

鷹取山登山も今年は10月30日(日)に予定されている。
7月の早い時期に2度ほど町内にある六ヶ岳に二人で登った。
8月は暑いからお休みして、実を言うと本日(19日)六ヶ岳
に登る予定であったが、あいにくの台風の影響で雨模様となり
断念。そのお蔭でブログを書く気になった次第である。

このように書き連ねていくと、私の場合、継続という言葉に
縁がないのである。なので、いつまで経っても力とはなり
得ないのである。私が作文に苦闘しているキッチンのテーブル
の向こう側では、家人と長男が並んでパソコンを開いている。
仕事関連の書類を作成している長男と、何を見ているのか
判らない家人に対して、基本的な質問を投げかけると、
優しい息子と厳しい家人が対応してくれる。普通は逆で
あろうに。努力をしない、継続を出来ない私に対して半ば諦め
見捨てているのであろうか。暑い夏を理由にして自転車も
お休みしていたが、秋になったら言い訳も出来ない。
「時間が足りない」と言ったら「ママさんだけ1日が2〜3
時間少ない訳ではないでしょ」とアイスキャンディのような
冷たい答えが返ってきた。
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2011年08月18日

昼のセミと夜の蝶

立秋が過ぎ、8月23日の“処暑“が目前に迫り、
9月に入ると”白露“、秋分の日(お彼岸)と続いて
秋が近づいてくる。この暑さももう少しの辛抱と
思えば嬉しくもなる。今年の夏も猛暑日が続いているが、
私は暑い夏が大好きである。ギラギラと照りつける太陽も、
青く高い空と入道雲も、ありったけのエネルギーが
発散される気がするからだ。

寝入ったばかりと思う頃(午前5時半頃)に、庭で鳴く
セミの合唱団の大音響に起こされる。過去には、私の短い
睡眠を妨害するセミの鳴き声を恨めしく思うことも度々
あったが、最近では心の中でセミたちにエールを送って
いる自身の変化に驚いている。若い頃は、安眠妨害の
セミを「煩くて寝られん」と恨んだこともあったが、
年を重ねたせいか最近では鳴けるだけ鳴いて最後まで
エネルギッシュに過ごすように、頑張れ、頑張れ!!と
エールを送りたくなるのである。

セミの生態は詳しくは知らないが、地中に6〜7年幼虫で
過ごし、地上に出てからは1週間の命と聞いている。
この残された短い時間を必死に鳴くことで、己の存在を
アピールする蝉時雨を聞きながら、セミと私自身の生き様を
重ね合わせて、自分に残された人生に想いを馳せるのである。

人は元気な時よりも弱った時(若い頃より年老いてから)に
人生について考えると言った人が居たが、そうかもしれない。
かの徳川家康の人生訓には、「人の一生は重荷を負うて 
遠き道を行くがごとし急ぐべからず 不自由を、常と思えば
不足なし・・・」とあるが、子育てを終え、重荷を肩から
降ろした今、朝の目覚めを今日も生かされているとお日様に
向かって感謝する年齢に達した私は、このセミたちのように
残り少ない人生を気力、体力が続く限りエネルギッシュに
前進して行こうと思っている。

私のモットーは「暑いときに暑がらず、寒いときに寒がらず」
である。とは言っても仕事に入るとクーラーを効かせて汗を
かかないように仕事モードに切り替えている。その代り昼間は
夜とは一変して、家じゅうを開け放しランニングに短パンの
軽装で掃除や雑用に汗だくになって走り回っている。汗まみれに
なった体をシャワーと水風呂で冷やし、風鈴の音を楽しみながら
スイカを食すなどは至福のひと時である。

太古の昔から夏は暑いものと相場は決まっている。それ故に
私は暑い、暑いと口にしないと決めている。クーラーの効いて
いるお店の中でも、忙しく立ち働いていると汗が噴き出してくる。
このような時こそ涼しい顔をするのである。長いキャリアの中で
身に付いた習性なのだ。夜の蝶でさえこれなのだから、昼間の
セミもよもや、暑いあついと泣いているのではなかろう。

今年もまた、暑いお盆がやってきた。初盆参りも済ませ、
逝った人に手を合わせ、在りし日を忍び、盆踊りも家族で
見に行き、飛び入りで知人と共に炭坑節を踊った。あと何年
(何回)私の夏を楽しむことが出来るのであろうか。短くとも
長くとも私はセミのように1日1日をエネルギッシュに生きて、
残された人生を悔いのないように生きていこうと考えている。
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2011年05月26日

台風一過?(Part 1)

k_kyoto.jpg

今朝(23日)は朝から一日中雨が降っている。元の静けさに
戻った我が家では、孫台風が去った後、座敷の障子をビリビリに
破られた惨状が残されている。家人と二人でコーヒーを飲み
ながら“孫は来て良し帰って良し”を実感している。

20日(金)の19時に京都を発ち、翌朝3時に我が家に着いた。
京都→鞍手間600Kmを8時間かけてのロングドライブである。
前回里帰りした時は、2009年3月末であったから2年ぶりの
里帰りとなる。こちらからも京都に行くから再開は1年ぶりと
なる。先々週は前半が雨が続き、後半は予約のお客様で時間が
取れず、先週は家の内外の掃除に明け暮れた。

夜中にコーヒーを飲みながら再会を喜び合い、長時間運転の労を
労い、明日の予定の打ち合わせとなる。今回は食事も行事も何の
予定もたてておらず、時間も限られているので、娘たちの意見を
聞いて決めようと考えていたのであった。動物園や水族館は
もっと大きくなってから行こうとなり、海に行ったことが無い
とのことで、芦屋の海浜公園に行くことに決定。朝10時の起床を
約して就寝。

朝は早くから孫たちの声で起こされる。年の若い順に起きて来て
最後に家人が眠そうな顔をして起きて来た。孫たちは早々に朝食を
済ませ、今か今かと待ちわびて、手を引っ張るのである。
10時過ぎに出発。

この芦屋の海浜公園は入り口にプールがあり、奥の方に芝生の
広場があり、滑り台がポツンと置いてある。波打ち際まで200m
ほどあり、小さな子供を遊ばせるにはもってこいの場所である。
孫たちを遊ばせながら改めて思ったのは、子育てには辛抱と体力が
いるということ。延々と同じ遊びを繰り返すので、その都度付いて
回ることになる。自分が子育てをしていた頃のことはもう忘れて
いるが、若さ故に出来たのだろう。娘を見ていると子育ての一生
懸命さが、ひしひしと伝わってくる。最後は姉弟喧嘩が始まり、
引き離すために浜辺に移動。

我が家の子供たちは皆 海が好きであったが、孫たちは最初は
怖がって海に入らなかった。しかし、一旦味をしめると後は
独壇場である。孫たちは勿論のこと、剛士も家人も娘も婿も、
皆ずぶ濡れになってチビたちのお相手をしている。幸せを絵に
描いたような風景を見ながら、“歴史は繰り返す”という言葉を
思い浮かべながら、どこかで見た風景だナと思っていた。自分の
子供がこの孫と同じ年の頃、亡くなった父母が丁度私が見ている
この風景を、同じ思いで眺めていたのかと思うと、親の愛情や
思いというものは親から子、子から孫へと営々と引き継がれて
いくものであるということを、改めて思わずにはいられない。

私の両親や姉は曾孫まで見ているが、私たちはそこまでは望む
べくもないが、せめて成人式までという思いはある。それでも、
それを実現するには80歳後半まで頑張らなければならない。
京都のバーバーは去年の3月に亡くなった。残された京都の
ジージーと九州のジージー、バーバーが元気でいなければとの
思いが強くなっていくのである。
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2011年04月22日

結婚式に参加して

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17日(日)、“ホテル日航福岡”に於いて、甥の長女の結婚式
があり家人と一緒に参加した。私の周りでは去年の秋口から
不幸事が続いており、久し振りの祝い事である。何故にこうなる
のかを考えてみると、私の年からすると子供の代での結婚式は
とうの昔に終了しており、身内のそれでさえ、もう孫の代に
なっているのである。これではよそ様からお招きがあろう
はずがない。声が掛かるのは不幸事だけとなるはずである。

この結婚する娘のおバーちゃんに当たる、私より9歳年長の姉は、
半月ほど前に、ひいバーちゃんになった。去年の春に結婚した
孫に男の子(曾孫)が産まれたのである。身内を見渡してみると
適齢期を迎えた男女が目白押しである。しかし、この子たちとは
生活していく中で接点があまり無く、「あなたは誰?」と、
名前と顔が一致しないのである。その親である甥や姪たちは、
私たちの兄弟付き合いの中で、小さい頃から見ているので思い
入れが違うのであろう。だから、バージンロードを花嫁である
娘と腕を組んでコチコチに固まった顔で、ステップを間違わない
ように足元を気にしながら歩く、甥の方に目がいくのである。

披露宴のテーブルの私の隣に座っていた48歳になる別の甥が、
「叔母ちゃんが結婚した時、僕は7歳だった」。「そうか我々は
もう40年が過ぎたのか」。「思えば遠くに来たもんだ」の思い
である。結婚したての頃、家人は「娘婿の中では俺が一番点数が
悪いだろう。でも嫁さんは一番幸せにしてみせる」と腹の中で
思っていたそうである。ひいバーちゃんである姉などは「よく
あんな人相も根性も愛想も悪いのとうまくやっていくよネ」と
言っていた。余計なお世話である。私にとって最も都合の良い
存在であるから、三拍子揃って悪かろうと全く気にしてない。
亭主元気で留守がちで稼ぐのだから何の文句があろう。亡く
なった妹の子供を含め四人の子供を育て上げ、今は年寄り二人
だけの悠々?自適の生活である。家人もリタイヤしてからは、
“自分のことは自分でする”をモットーにして、色んな部分で
手助けしてくれる。ホントに手間の掛からない亭主である。
今はパソコンとロードバイクに夢中で、どちらも私の方が
お世話になっている。

今年の正月に家人が「俺はトリプル50を目標に生きる」と
言った。これは両親の50回忌と私たちの金婚式を二人元気に
迎えるということで、父親のそれは53年が過ぎ、母親はあと
8年で到達、金婚式はあと10年元気でいれば達成出来るのである。
この3つを経験出来る人もそうそういないであろう。
そのためにはお互いが元気でいなければならない。トリプル50
プラス、古希を迎えるまでに40000Km(地球一周)を
ロードバイクで走破するのも、もう一つの目標だという。
この元気を私も見習わなければいけない。忙中に閑を求めて
サウナ、ヘルシーダンス、ウォーキング、クロスバイク、山登り
、これにパソコンもしなければ。元気でいなければこの結婚式にも
参加できないのである。

薄暗い会場内をキャンドルサービスのため、ロウソクに火を
灯して回る新郎新婦を見ながら、遠く過ぎ去った自分たちの、
結婚した当時のことに思いを馳せながら、これからの厳しい時代を
越えてゆかねばならない、この新米夫婦に幸多かれと祈らずには
いられなかった。

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2011年04月07日

私とクロスバイク

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今日(4月7日)、自宅より芦屋の河口堰まで往復24,4Kmを
クロスバイクで家人と一緒に走って来ました。朝、目が覚めると
曇り空。絶好のウオーキング日和。歩こうかと思ったのだけれ
ども「そうだ自転車漕ごう」。何故こういうことになったかと
言いますと、3月末に家人が1年間乗ったクロスバイクを卒業
して、ロードバイクに乗り換えたので、今まで乗っていた
クロスバイクを私に譲ってくれたのです。

次男の剛士がトライアスロンを目指していて、ロードバイクに
乗っているのに感化されたようです。最初は6月の家人の誕生日
に買おうか、みたいな話が段々早まって、息子の連休に合わせて
親子で走ろうとなり、急遽、買う事が決まり先月の29日に剛士
のロードバイクと共に新車が届いたのでした。自転車だけではなく、
ヘルメット、ユニフォーム、シューズ、その他、諸々の道具も
含めて「有り金全部、はたいてしもーた」と、親子二人して
段ボール箱から部品を取り出して組み立てに余念がありません。
聞くと、次の日(30日)早朝より志賀島を一周して帰って来る
というのです。後で聞いた話ですが、走行距離は152Kmあった
そうです。これは自宅より大牟田までの距離に相当するそうで、
これを自転車で走るというのが理解出来ません。

剛士曰く『親父を鍛えてやったョ−』と笑ってました。私が「父親
の年も考えてやらんと、少しは手加減してやりなさい」というと、
「年は関係ない。俺は親父の為を思ってシゴいているんだから。
手を抜いてやっても親父は喜ばんよ」。家人はクロスバイクでは
100Km走ったことがあったそうで、自信満々で朝の8時半に出て
行ったのですが、走り出した途端に「こりゃ行けるかいナ」と
不安になったそうです。初めて乗るロードバイクはペダルも変速機
も姿勢もクロスバイクとは大違いで、慣れないシートと姿勢でお尻
や腰が痛くて最後の30Kmは歯を食い縛って耐えたそうです。

26歳の息子に対して「老いたりと言えども一矢報いるという精神
で頑張った。間違っても息子の前では弱音は はかん」。似た者
親子なんだよネー。それ以来2日に一回100Kmを走っている
そうで、峠とスピードをマスターして息子に再挑戦するそうです。
幾つになっても夢中になれることがあるというのは素晴らしいこと
だと思います。

翻って私は自分に対して優しい性格が災いしているのか、こういった
自分を虐めるような鍛錬は長続きしません。現在は週に1回ヘルシー
ダンスに行き、週2回100分程のウオーキングを行い、理想として
はこれプラスの月2回の山登りと、週1回の自転車がやれたらいいな
と考えています。只、これまでのパターンからすると、日に焼ける
とか、腕が太くなるとか、我が家の男性陣に言わせると、「言い訳
しとるうちは続かんナ」とか「結果の出らん努力は努力じゃない。
やり方を変えにゃー」などと、又、言われそうです。道具も環境も
整っているのにそれを有効活用出来ていないのです。

今日、一緒に自転車を走らせながら思ったことは、家人の性格から
すると「あれは駄目、こうしなければ」と厳しいことを言うのかと
思っていたら、さにあらん。優しいことこの上ない。息子からやら
れたことを私にするでなし、「その先を右に曲がります」とか、
「道路を横断するから降りた方が良い」とか至れり尽くせりである。
なんとか仲間に引き込もうとしているのか、私に自転車を続けて
欲しいと願っているのか、ゴルフも夫婦、親子で楽しんだ。自転車
も私が頑張ればこうなれるかもしれない。しかし、剛士は200Km、
家人は100Km一日で走るのである。私ときたら25Kmでお尻が
痛くなるんだもんナー。続くかナーなんて、もう言い訳のネタを
探している弱気の私がここに居た。
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2011年03月26日

東日本大地震を思う

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物事の優先順位を考えた時に、必然的に公的なものが私的なもの
よりも先になるのが世の常であろう。と、いうことは重々承知の
上であるが、まず最初にブログが書けないことへの言い訳を
述べなければならない自分が恥ずかしいし悲しい。それに言い訳の
ネタには事欠かないから始末が悪い。

ライオンズのホームページと広報紙に全力を傾けているがため、
私事にまで手が回りませんでした。「申し訳ございません」と
頭を下げる。の図。文字化けした脳ミソを活性化させ、奮起を
促してくれたのは、お店にいらしたお客様の一言からでした。
「いつもブログを楽しく読ませてもらっています。最近は書いて
ないですネ。短くてもいいから地震のことを書くべきですョ」。
ライオンズのホームページでは取り上げましたが、自分のブログ
では辛いことや、悲しいことはあまり書きたくないのです。
というより書けないのです。

皆様、ご承知の通り3月11日(金)午後2時46分、東北地方
にM9.0という未曾有の東日本大地震が発生し、津波と火災で多くの
被災者が出ており、23日午後9時現在で死者・行方不明者
25000人を超えている。又、福島原発の放射能漏れの影響が
心配されている。被災された方々の避難所生活は水、電気、ガス、
ガソリンなど無いものだらけの不便な生活を強いられています。
地震の被害を受けていない地域に住む私たちがこれからの
救援活動で何が出来るのかを考えた時、募金に協力する、献血、
節電、買い控えなどがあると思います。

それに家庭で使用されていないラジオ、懐中電灯、電池、ストーブ、
コタツ、などを集めて自治体を通じて被災地に送ることも良い
のではないでしょうか。

ここまで書いて筆が止まってしまいました。いつもの自分の文章
ではないのです。やはり私には震災のことは書けません。文字を
書く気力を失くした私はパソコンの中を当ても無くさまよっていた。
偶然、素敵な文章を目にする。それは、“コラムーモレシャン夫妻の
北陸記”の中にこんな素敵な詩を見付けました。

「4本のロウソクが炎を揺らせています。1本目のロウソクが
言いました。「私の名は〈平和〉。誰も私の炎を守ってくれない。
もうじき消えてしまうわ」。そう言って炎は消えました。次の
ロウソクが言いました。「私の名は〈信頼〉。とてもか弱いから
簡単に消えてしまうわ」。その時、ちょっとした風が吹き、
2本目も消えてしまいました。3本目のロウソクは「私の名は〈愛〉。
最近の人間は私を疑うだけでなく、信じてもくれない。家族の間で
さえも」。そう言って、消えてしまいました。
一人の子供が通りがかり、消えた3本のロウソクを見て
「どうして消えてしまったの」と泣き出しました。すると、
4本目のロウソクが言いました。「泣かないで。私の炎がある限り、
3本のロウソクにまた火をつけることができるのよ。私の名は〈希望〉
なの」。子供は〈希望〉という名のロウソクを手にし、〈平和〉と
〈信頼〉と〈愛〉のロウソクに火をともしました。」

この詩を見付けたお陰で文を形作ることが!出来ました。
どうぞ、被災地の皆様、希望を持ってこの苦境を乗り越えてください。
そして、一日も早い復興を願ってやみません。微力ではありますが、
自分たちで出来る支援に取り組んでいこうと考えています。
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2011年01月10日

出初め式に参加して

明けましておめでとうございます。
何とか松の内にブログを更新しようと考えては、いたのですが
暮れから新年に掛けてとても忙しく、休みも31日、元日だけで
2,3日に予約があったのでこの連休までは気忙しくて、ここにきて
ようやく一段落という感じでいます。

9日(日)は直方消防署の出初め式に”まとい会”のメンバーとして
初めて出席することになりました。
式が行われる会場が、河川敷の駐車場だけに寒さに震えると
ヤバイと考え、ブーツ、ヒートテックのアンダーウエア―、毛皮の
コート・首巻・手袋とフル装備で出掛けた。

予定の時間より早く着いて、初めてのことだけに、どこに座って
いいものかが判らず、市会議員の方の後ろに座っていると、
まとい会の松藤会長が「ママ、そこじゃないよ、コッチこっち」
と声を掛けてくださり移動。それもビニール張りのテントの中の
ストーブの横の一等席に迎えてくれた。寒くないのは有り難い
のであるが、コートが焦げはしないか心配だ。

式典は鞍手高校吹奏楽部の行進曲で、300名近くの消防団員の
入場から始まり、表彰式、祝辞、挨拶など1時間半程に及んだ。
その間、団員の方達と吹奏楽部の生徒の皆さんはコンクリートの
上でさぞかし足が冷たかっただろうと同情申しあげる。最後に
祝賀放水が行われ、川面(かわも)に向かって七色の水が弧を
描き美しいフィナーレとなりました。

式の後、祝賀会が商工会議所 4Fで行われ、私はここから500m
ほど離れた商工会議所まで河川敷の芝生のフカフカ感を楽しみ
ながら歩きました。ここの河川敷は左手は市役所や、市街地。
右手には水辺館、球根植え付けをしたチューリップフェア―会場。
遠景には福智山、鷹取山を望む景色の良い所で、散歩やジョギング
を楽しむ人を大勢見かける場所でもある。本日は対岸で市民マラ
ソン大会が開催され、多くのランナーが走っているのがこちらから
望めました。

祝賀会会場では市長をはじめ、地域の名士の方々が集まり、久しく
お会いしなかった方や、エッこんな方までといった出逢いがあり、
楽しいひと時を過ごすことが出来ました。

本年も慌(あわただ)しい年始となりました。自身や家族の健康、
事業の継続・維持を荒五郎山に登り、初日に向かってお願いした
のは、いつもの年とおなじ内容のものですが、忙しさの中に身を
置くことを、喜び楽しめる精神と肉体を鍛錬し維持していこうと
考えて過ごした松の内でした。



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2010年12月16日

朝、目が覚めると外は初雪だった

昨日からさむい寒いと思っていたら今日初雪が降った。
冬がくると雪に関することを書いている。去年は作家・
倉本聰氏のことを書き、一昨年はアダモを書いた。
さて、雪は降ったが今年は何を書こうかと筆が止まった。
しばし考え、アーこれがあった。伊勢正三の”なごり雪”。
何ゆえにこうなるかと言うと、11月13日に直方ユメニティ
で大林宣彦監督の講演と映画”なごり雪”が上映された
のである。ヨーコさん親子と家人の4人で出掛けた。
私にとっては久し振りの映画鑑賞であった。

大林監督の語り口は”吶々(とつとつ)人に逼(せま)る“然と
して、とても判り易くお上手であった。
話の内容は、撮影風景や苦労話、そして文明と文化の
話であった。映画を見てすぐにこれを書こうとしたのだが、
文明と文化が重すぎて書けなかったのである。

今の行政は古い文化を取り壊して新しい物を作ることが
文明と考えている節(ふし)がある。そうではなくて
古いものを大事に使い保護しながら、それらと共存していく
文明にしなければいけない。というような内容であった。
特に駅の話は興味深いものでした。この映画では
大分県の津久見駅が出てくる。今時こんな鄙(ひな)びた
駅が存在するのかといった風情なのである。

監督のお話では、当時の市長が津久見の文化を守るため、
セメント工場の進出さえも反対して止めたという。
古い物を大事に使って、いつまでも変わらない街造りを
目指したという。

映画では、隣の臼杵市の石仏も出てくる。20数年前に行った
時は大仏様のお顔は地面に置いてあり、首無しの仏様で
あったのが、画面ではお顔が胴体と繋がっていたので驚いた。
それにタイトルは”なごり雪”であったが、雪のシーンは無かった。
それと映画のイントロに伊勢正三の”なごり雪”が流れていた。
私は”イルカ“の歌しか聞いたことがなかったので、この人の
作詞作曲だとはこの時初めて知った。

直方駅を見た監督が「いいですネーいつまでも残して欲しい
ですネー」。100年の歴史のあるこの駅は、折尾駅、
門司港駅と並んで明治、大正時代の遺産なのである。
残念ながらこの駅舎は取り壊されて、立て替える予定
だそうである。

確かに古い物を使うということは不便な点が多々ある。
エレベーターもエスカレーターも無いかもしれない。
冷暖房も効きが悪いかもしれない。しかし、便利さを追求
し過ぎるがあまり無くしていくものもあるのではないだろうか。
近頃ではバリアフリーを見直す動きがあるという。
高齢者のために段差を無くしたところ、かえってその段差を
注意しなくなった弊害が現れてきたという。文明の発達が
必ずしも人間に幸せをもたらすばかりではないという見本
みたいなものであろう。

生き方、考え方によっては電気、ガス、水道、携帯電話など
が無くとも生きていけるのである。釜でご飯を炊き、井戸水を
汲み上げマキで風呂を沸かしと、半世紀前には皆そうして
不便を不便とも思わず生活してきたのである。一旦、甘い水を
飲んでしまうと苦い水は飲めないだろうが、”我唯足知”
(ワレ、タダ、タルヲ、シル)の精神は必要ではないか。
不便な部分があるが故に、人は工夫をするし考えるのである。

確かに、文明は人々が必要とする物を作りだしてきた。
それが私たちに便利で快適な生活を約束してくれている。
一方、人々が長い時間を掛けて認知し、守ってきたものが
伝統であり、文化であろう。
スクラップ&ビルドの文明は人々から文化(精神)を
奪っているように感じてならない。これまで守り、
培ってきた文化は一旦壊すと誰が何を言おうと、悔もうと
二度と元へは戻らないのである。

この1年、母親が自分の産んだ子供を虐待や殺したり、
老親が死んでも届け出ず、知らん顔して年金を貰うような
事件が続出した。
人心の荒廃は文明の発達とは無関係ではないであろう。
”温故知新”のような、未来の事態を知りたいのなら、過去の
経緯を考えこれから先をいかに生きるべきかを考えることが
大切なのではないだろうか。

初雪の降るのを見ながら”なごり雪”から話はスタートした
のですが、随分話は横道に逸れました。やはり私には文明、
文化は荷が重かった。



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2010年12月03日

錦繍の中を歩みて

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11月21日(日)、ライオンズクラブの行事で秋吉台
サファリランドへ障がい者の方たちとバスハイクを
楽しみ、23日(火)の勤労感謝の日には家人と
二人で鷹取山へ出掛けた。両日とも素晴らしい
秋晴れの天気に恵まれ、それに加えて紅葉と
黄葉の美しさは錦秋よりも錦繍の字を使った方が
ピッタリくるような景観でした。

今夏は異常気象のせいで、あまりにも暑く
長かったせいで、季節が急に変って短い秋に
感じますが、師走を目前にしたこの両日の旅行きは、
目の保養となり最高のものとなりました。

私は春に産まれたので四季の中では緑の若葉や、
桜吹雪の春が好きなのですが、晩秋に見る黄葉した
イチョウや、真紅に紅葉したモミジを見ると、その
美しさに感動を覚えます。

日本には春夏秋冬と四つの季節が其々に自己を
主張しあっています。しかし季節の移ろいは次の季節の
領分にまで入り込み、いつの間にか季節が移り変わって
いるといった洒落た演出を見せてくれます。
人々も、まだ秋には夏の暑かったことは覚えていますが、
冬になるともう夏の暑さは都合よく忘れてしまうのです。
そのようにして季節毎の幕を引き循環して、どこからが
始まりでも終りでもないといった、冬の寒さを辛抱すれば
温かい春がやってくるという約束事を人々も木々もチャンと
知っているのです。

紅葉(黄葉)が終わると木々たちは一斉に落葉を始めます。
科学的には、冬に向かって余分なエネルギーを使わない
ために落葉すると言われていますが、私には木が泣いている
ように思えるのです。”はらはら”という言葉は”花びら・木の葉・
涙・露など小さくて軽いものが次々に落ちるさま”とあります。
ハラハラと舞い落ちる枯れ葉はまさに涙なのです。

ピアノの伴奏だけで歌うイヴモンタンの”枯葉”は哀愁を帯びて
寒い冬に向かう晩秋の寂しさを切々と語りかけてきます。
落葉が泣き顔だとすると、紅葉は涙を流す一歩手前の笑顔
だと思うのです。神様は春には目に優しい緑を、秋には目を
楽しませる紅葉を私たちにプレゼントしてくれているのです。

錦繍の中で自己を主張している木々たちに向かって、
「来年も会いに来るからネ」と健康で歩けることへの感謝と、
もう終わろうとしている秋にむかって「美しい紅葉を楽しませて
くれてありがとう」と、お礼の言葉を口にしながら山を下りて行った。

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2010年11月17日

Happy Birthday to You

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タケちゃん お誕生日 おめでとう 幾つになったかネ。
近頃はメールもこないし、全く連絡がありませんが、
”便りが無いのが無事な証拠”と思って心配は
してませんけど。たまには顔を出すなり、電話で声を
聞かせるなり、するのが孝行息子の務めでしょ。
考え方一つでハトさんやカラスさんのような、孝行の
やりかたがあるのではないですか。

日曜の夜にオトンと二人でホルモン鍋を突きながら、
タケちゃんをはじめ子供や孫の話になりました。
思い返してみると、お腹の中に小さな命を宿したことを
自覚したのは、昭和59年の春休みに、大分の国東
(くにさき)半島に家族旅行した時でした。
旅行のあいだ中吐き気がして、もしかしたらの予感が
あり、帰って病院で検査してもらうと「おめでた」ですと
告げられました。

そのことをオトンに話すと「覚えがないナー」、「なんで
今頃」。”養生訓(貝原益軒)の接して漏らさず”の
遣り損ないか、”あの時トーちゃんが酒さえ飲んで
帰って来んかったら”のどちらかのパターンでしょ。
「子供たちには貴方から話してください」。
6年生の順兄ちゃんと5年生の美香姉ちゃんを座敷に
正座させ、「今年の11月がきたら君たちの弟か妹が
産まれます」と告げると、順兄ちゃんは二−っと笑い、
美香姉ちゃんは「妹が欲しい」と、とても 喜んで
くれました。

その年の11月19日お昼前に、大きなお目目の
玉のような、それはそれは 可愛い男の子が産まれました。
順兄ちゃんとは一回り違いのネズミ年。
お祝いに駆け付けたオカンの同級生たちは、「ロシヤ人の
子供みたな顔して可愛いね」。

「この子の名前は俺が考える」とオトン。女の子なら愛美、
男の子なら”タケシ”は結構早い時期に決めたようですが
、どの字にするか迷ったそうです。”武士”にするか、
金剛の剛に志にするか。”もののふ、さむらい”のように
強い男に育って欲しいと願い、”士”のほうを選び剛士と
命名したのです。その名のとおり悪ガキに育ち、
近所のオイチャンたちは剛士を見ると「おい、ワルソー」と
呼んでいましたよ。

台所の壁に掛けてある、4歳のタケちゃんがピアノを
弾いている写真を見ると、昨日のことのようにその時の
光景が目に浮かんできます。
美香姉ちゃんと”猫ふんじゃった”を連弾して、インタビュアー
のピアノの先生から「剛士くんはピアノは好きですか?」と
聞かれ、一言で「好かん!!」。会場は爆笑の渦。

社会に出るまでは何不自由なく過ごし、自由闊達で笑顔が
素敵で、博学な好青年に育ってくれたと思っています。
だけど、目を閉じるとピアノの足に縛られてベソをかいた
顔や、裸足のオカンから表の道路まで追いかけられて
捕まるもんかとヘラヘラ笑いながら逃げる剛士の姿が
浮かんできます。
幾つになろうともこれがオカンの剛士なのです。
あの頃の騒々しいまでの子育ての時期が懐かしく、又、
私自身のパワフルさを思い出しています。

アナログ人間のオカンが、お店のホームページのブログを
バースディカード代わりに使うなんて、デジタルだとは
思いませんか。
帰っておいでよ。一緒に旨いもん食べョ 。
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2010年11月11日

女郎蜘蛛、上搨w蛛、絡新婦、みんなジョロウグモ

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吾輩は猫である。名前はまだない。どこで生まれたか
とんと見当がつかない。
夏目漱石を寸借すると出出(でだ)しはこうなる。

吾輩はクモである。名前なんぞは判らない。ましてや
出生地などとんと見当もつかぬ。
何ゆえにクモの出番なのか。説明すると、ママさんが
今年も又、”季節はずれのカマキリさん”を見つけて
写真を撮っていた。カマキリの姿を撮り終えてフッと
上を見上げた所に吾輩が巣を掛けていたというわけだ。
吾輩を見上げたママさんは何を思ったのか人相の悪い
オッサンを連れて来た。このオッサンが例の“家人”
なのかな?。
ママさんは動物が苦手で自分では怖いものだから
オッサンに吾輩の写真を撮らせようとしてるゾ。
ここのところライオンズのホームページに感(かま)けて
自分のブログを疎かにしているので、吾輩のことを
書こうとしているのだろうナ。

写真を撮り終えたオッサンはインターネットで吾輩が何者
なのかを調べているゾ。最初は”黄金蜘蛛”と思っていた
らしいが、このクモはお尻というか胴体の形が五角形で
黄色と黒のストライプのシャツを着ている。
吾輩はどちらかというと卵型をしていて、黄色と青緑色の
ラガーシャツを着ていて、どうも”ジョロウグモ”ではないかと
いうことが判ってきた。
調べていくと性別もメスらしい。それなら吾輩などと男言葉を
使ってはダメでせう。

ジョロウグモは「女郎蜘蛛」と書き、その姿から遊女の女郎を
連想してつけた名前であるという説もあるが、その姿を雅びで
艶やかと感じる当時の身分の高い女官の“上掾hになぞらえて
命名したという。”上掾hとは・年功を積んだ高僧、・身分の高い
人、女官、上流の人、上搶蘭[、・身分の高い婦人、貴婦人と
あり、いずれも大変なほめ言葉で古人はジョロウグモの姿を
愛し高く評価していたことになる。
しかしながら上揩ェいついかなる理由で女郎に身を落として
しまったのか。この件については文献がないので定かではない。

もう一つ、絡新婦(ジョロウグモ)は日本各地に伝わる妖怪の一種
で、妖艶な女の姿に化けて男を食い殺すという言い伝えがある。
ジョロウグモの各地の伝承としては、静岡県伊豆市の”浄連の滝”や
仙台市にある”賢淵”などがある。

日本には古来、クモを見ることによって縁起をかつぐ風習が
存在する。代表的なのは、いわゆる「朝グモ」、「夜グモ」
という概念であり「朝、クモを見ると縁起が良く、夜にクモを
見ると縁起が悪い」とするものである。
ただ、地方によってはさまざまな違いがあり、例えば九州地方の
一部では、クモを「コブ」と呼称するため、夜のクモは「夜コブ
(喜ぶ)を連想させる」ものであり縁起が良いものとされる。

ジョロウグモのカップルはノミの夫婦と一緒で、メスはオスの三倍
ちかくも大きい。小さなオスも同じ巣の中に同居しているのであるが、
まるで居候状態であるという。たとえ居候であったとしても
”種の保存”ということになると、不可欠な存在なのであるが、
正面切って求愛するとメスに食い殺される恐れがあるため、メスの
背後から交尾のチャンスを窺っているという。よって交尾はメスの
脱皮直後や、食餌中に行われるという。ムードもなにもあった
ものではない。命懸けで子孫を残しているのである。

ジョロウグモの独り言
「暦の上では立冬も過ぎて朝晩の寒さが身にしむ季節になったナー。
近頃では虫も網に掛かることも少なくなった。今日は早仕舞いして
隣にできた焼き鳥やで串焼きでも買って一杯やって寝るとしよう。
ブルルッ、ウーさぶい。毛糸のマフラーか、フリースのベストや
ヒートテックのアンダーウエア―が欲しいナー。歳がいくと
銭のないのと寒いのは辛抱できんようになるワー」。

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2010年10月11日

99年と11カ月

10月2日の午前に末松のお婆ちゃんが亡くなったと
電話が入った。今月の末に100歳の誕生日を
迎えるはずだった。

白寿のお祝いも済ませ、元気に過ごされていると
聞いていたので、その日が来たらローソクを100本
たてたケーキでも贈ろうかと話していたのに。
ここまで生きてきたのだから、せめてあと1カ月長生き
して100歳を迎えさせてあげたかったと思うのは
残された人の慾であろうか。

もう30年以上前になるだろうか、家人が末松のお婆ちゃん
から聞いた話をしてくれたことがあった。
「逝こうとしている人に対して、周りの人は1日でも長く
生きて欲しいと願い、延命治療を施す。然しこの行為は
本当に患者のためになっているのか。
末期になれば言葉も言えず、もう楽にして欲しいとか、
終りにして欲しいとか願っているのではないか、と
考えることがある」と語ったそうである。

末松のお婆ちゃんと家人の関わりは、10歳の時に父親を
亡くして以来だから半世紀に及ぶ。
父親の死亡により、社宅を出ねばならなくなったとき、
自宅の納屋を無償で提供してくれ、一家の主を亡くし
路頭に迷う母子3人を助けてくれたのである。この他にも
有形無形の助けがあったのであろう。

母親は感謝の気持ちを表すために、朔日(ついたち)と
15日には山に入って榊を取って来て末松家をはじめ、
お世話になったお宅に持って行ったという。
又、2人の息子に今自分たちがあるのもこの方たちの
お陰である、恩を忘れるなと、生き様で教えてくれたという。

母親が亡くなって以来40年、感謝の遺志を継いで盆暮れの
付け届けを欠かさず続けてきた。それも他人の手を介さず
自分で持って行くのである。
この配達はお世話になった方が亡くなり、初盆を迎えるまで
続くのである。
母親の遺志の伝承という事象だけを考えると、普通は母親が
亡くなった時点で終了するのではないか。
縦(よ)しんば、母親が教え諭したとしても、息子にこれを
受ける意志がなければこれも継続はないのである。

親身になって住居を提供してくれた末松のお婆ちゃんが
偉いのは勿論であるが、その無償の愛を夫に先立たれ、
自身が亡くなるまでの12年間で息子に教えた母親も、
その教えを素直に受け継ぎ40年の長きに亘り、感謝の気持ちを
持続させてきた息子も又、素晴らしい人たちであると思う。

幼くして親と死に別れることは不幸であることには違いない。
しかし、その不幸を体験することにより、他人様からの恩を知り、
恩返しを続けてきた人生は幸せそのものではないか。
親は子を育てるのと同時に、先代から受け継いだ精神を
次世代に引き渡す役目も担っているのである。
その意味においてはお婆ちゃんも、家人の母親もその人生に
長短の差こそあれ、見事に親としての責務を果たしているの
である。
私は子供たちに、これ程強烈なメッセージを伝えられるか
どうか、全く自信がない。

今の世の中、”仁,義、礼、智、信、孝”などの意義が廃れて
いるような気がしてならない。お婆ちゃんが亡くなることにより、
古き良き時代の明治が遠くなっていくように感じるのは私だけ
だろうか。
長い人生お疲れ様でした。安らかにおやすみください。


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2010年09月29日

一緒に登った鷹取山

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9月20日(日)の敬老の日に鷹取山に登った。今回の
メンバーはお店のスタッフのヨーコさんと娘のスズコちゃん、
カオリちゃん、私と家人の総勢5人である。
お店の駐車場に午前10時に集合。皆の分のお弁当を
ヨーコさんが一人で拵えてくれた。
私はお茶とスポーツドリンクを用意しただけ。
弁当とペットボトルを皆に分け、いざ出発。20分程で
内ケ磯ダムの駐車場に到着。天気はまずまずの登山日和
である。

今回の3人は登山初心者。私も久しぶりなので同レベルかも。
駐車場から登山道入り口まではアスファルト舗装の道路で、
足慣らしには丁度いい。ここからいよいよ山の中へ入って
行くのである。コースとしては薙野の休憩所までと、そこから
上野越え(あがのごえ)まで、ここから鷹取山へと3つに分れる。

登山道入り口から薙野の休憩所までは、緩やかな砂利道で
まだ会話や景色を楽しむ余裕はある。
坂の途中の曲がり道に一輪だけ彼岸花が咲いていた。
今年は猛暑のせいなのか、彼岸花の咲くのが遅いという。
彼岸花で有名な棚田のある地域が観光客を呼べなくて
困っているという話を聞いた。

問題はここから上野越えまでの岩がゴロゴロした急坂で、
一番神経を使って登っていかなければならない箇所だ。
悪いことに、ここを登り始めてから雨が降り出し、上野越えに
着く頃にはビショ濡れになってしまった。上野越えに
設置されている温度計は22度を指していた。チョッピリ肌寒い、
下界との差が10度程もある。

この分岐点から鷹取山まであと15分。「あと10分で山頂ですよ、
そこのカーブを2つ曲がったら着きますよ」と、皆と自分に
言い聞かせながら、励ましながらようやく山頂に到着。
ここの山頂は崩れた石垣跡を小さく登ると、急に目の前が
開ける。城跡のため山頂が平らになっているのだ。

「ヤッター登りきったゾー」。いつ登ってもこの感動は
新鮮なものだ。
今回は途中で引き返そうと思ったくらい、雨に降られたので
尚更その感じが強い。
山頂に着くと今まで降っていた雨が嘘のように止んでいた。
見上げると雲に覆われて福智山は見えない。足元のずっと下を
雲が流れて行くので下界も見えたり隠れたり。
山頂でのヨーコさんが作ってくれたお弁当のおいしいこと。
それにこの感動がプラスされるから又、来ようと思うのだろう。
1時間程ランチタイムを楽しみ写真撮影を済ませて下山する
ことに。

私たちはトレッキングシューズを履いているので滑りに対して
少しは安心なのだが、彼女たちは靴底に凹凸が無いスニーカー
なので滑りやすい。なので帰りの水先案内は家人になって
もらう。
「赤土の所は滑り易いから避けなさい。ここは木に手を添えて
降りるように」と、事細かに指示してくれる。
歳の行った美しくない女(私のこと?)にはきついことを言うが、
若くて可愛い娘には殊更優しい。
何回も大きなお尻でシリ餅をつき、路面の締め固めに多大なる
貢献をしながら薙野の休憩所まで下りて来た。

ここから先は急に皆元気になって、笑顔や冗談も飛び出す
ようになった。
一人の脱落者も事故もなく無事に下山することができた。
雨には降られたが楽しい登山であった。
来月、ライオンズクラブで恒例の鷹取登山がある。友達にも
声掛けして皆で登りたいと思っている。3人も今回で懲りた
かナーと思っていたら、「私たち皆参加します。連れて行って
ください」。
山登りの仲間がまた増えた。嬉しいかぎりだ。お揃いのTシャツ
を作ろうという話にまで発展している。
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