2012年10月04日

後日談 諸九尼

DSCF7250_20121005.jpg

前回、石碑の写真を見てから一気に諸九尼のことを書き上げた。
写真が3枚に文章も長くなったので紙面が足りなくなり、書き
たい記事が残ってしまった。それに私の勘違いもあったし、
これはパート2を載せなければ完結しないと考え、追記して
いる次第である。

第一の勘違いは、御影石の石碑が本物だと思っていたのだが、
木を見て森を見ずの例えで、本体は写真にあるように、右後ろ
に高さ2mほどの自然石で出来た石碑なのだ。ここには草書体で
俳句が書かれているため、素人には判読できない(と思う)ので、
御影石の石碑はその説明のために建てられたものであった。

私が思うに、辞世の句よりもこの石碑の句のほうが、諸九尼の
生き方・悩みをよく表していると思う。分別とは、“理性で
物事の善悪・道理を区別してわきまえること”とある。浮風、
諸九尼のどちらかにもう少し分別があったなら、家庭を捨てる
ことはなかったのかもしれない。自分自身に置き換えて、女の
立場を擁護しつつ考えを進めてみると、「連れて逃げて」と
女の方から言ったかもしれないが、最終的な判断はやはり、
男の方だったのではなかろうか。もし、浮風が家庭持ちで
あったなら、その場限りの浮気で済ましたかもしれない。
家庭と己の立場を天秤に掛けても女を取るとしたら、それは
もう男女の業としか言いようがないのではなかろうか。

ただ、救われるのは浮風とは死ぬまで仲睦まじく連れ添って
生きたと思われることである。偕老同穴な生き方といい、
比翼塚という名付けといい、それをよく表しているではないか。
理解しがたいのは、浮風の17回忌を終えて40年近く暮した
京から、田主丸に近くなる直方に何故移り住んだのか。
2年ほどで亡くなっているから、死期を悟って浮風の生まれ
故郷で最期を迎えたかったのだろうか。このあたりは本を
読めば判るかもしれない。生まれ育った田主丸では、家庭を
捨てて駆け落ちした諸九尼の評価は芳しいものではなかった。
最近になって研究や本の出版などされ、地元でも女流俳人
「諸九尼」として見直されて顕彰などもあっているようです。

直方市では毎年、諸九尼の命日である9月10日に俳句大会を
催しているのですが、今年は9月9日に直方文化連盟主催の
直方と田主丸を結ぶ「浮風と諸九尼232回忌」交流記念講演
および追善俳句大会が行われました。このことに関連する記事が
市報のおがた(No767)平成20年9月号“折々の風“
(文 舌間信夫) 「諸九尼遺聞 B 直方と田主丸」という
コラムの最後に書かれていました。それには、「最近、諸九尼忌
の話が持ち上がっている。縁ある直方と田主丸の俳人が交流し、
合同句会を持ってはどうか。もし実現するならば文化的意義は
大きいといえる。諸九尼も草葉の陰で喜ぶに違いない」と、
書かれていて、この実現に向けては郷土史家である舌間先生を
はじめ、両地区の関係者の方々のご尽力があるのですが、
この後、努力が実を結び、生まれ育った地と終焉を迎えた地と
が文化交流を果たすのです。

諸九尼の半生を考えた時、心の奥には懺悔の気持ちが絶えず
あったと思うのです。夕陽が沈む西に向かって手を合わせて
いたのかもしれません。浮風の死後、剃髪し尼になったのも
その表れであり、7回忌を終わらせた後に奥の細道を尋ねた
のも、17回忌という心の区切りをつけて直方に移り住んだのも、
自身のケジメをつけたかったのかもしれません。帰るに帰れ
なかった故郷の、人々に認められたことを諸九尼が知ったと
したら、心の重荷を降ろすことが出来るのではないでしょうか。
諸九尼の残した足跡が、230年という長い時を経て、人々の
心の中の蟠(わだかま)りを溶かし、結びつける役目を果たした
のでしょう。
posted by ochiyo at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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