2012年10月30日

日本舞踊とコスモスと鷹取山(No113)

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27日から3日間にあった出来事である。土曜日(27日)は
朝から雨がパラつく生憎の空模様であった。12時から飯塚市に
あるコスモスコモンに於いて、ライオンズクラブのYさんの日本
舞踊の初舞台というのでチケットを2枚頂いていて、家人と
二人で出掛けた。

開演15分前に着く。私は最前列に陣取ったが、踊りにあまり
興味がないのか、家人は中段のビデオ撮りしている横の席に
座った。約2時間、下は4歳から上は84歳までの踊りを
見せてもらった。日本舞踊をやっている友達に声を掛けられ、
踊りを見に行くことは多いのだが、今回はレベルも高く、
舞台の仕掛けもしっかりしたものであった。終演後の楽屋を
訪ね「初舞台とは思えぬ出来でした」と言うと、「アガリま
した」
と謙遜していた。帰りの車中や昼食のステーキを食べながら
の会話の中で、「2人で踊った左は美人であったが、踊りは
右の人が上手であった」とか、「4歳と6歳ではこれ程の
進歩があるのか」、「女踊りより男踊りのほうがいい」などど、
家人が以外とシッカリ見ていたことが伺え、亭主も捨てた物
ではないなと、感心し直したしだいです。

翌28日の天気予報は朝方まで雨が残り、午前中は曇り、
昼からは晴れというものであった。予定としては午前に
方城町のコスモス祭りにスタッフと顔を出し、昼から鷹取山に
登ろうというアウトドアーの行事予定であったから、天気が
気になっていたのだが、予報どおりとなり一安心。

10時半に現地集合で出掛けたのだが、去年の場所に行くと
何もない。探すと500mほど先の田んぼに沢山のコスモスが
見えた。去年は開花のタイミングが悪くあまり咲いていなか
ったが、今年は満開である。担当のIさんに話を聞くと、
「種を播いた後の雨が幸いした」という話であった。この
コスモス祭りは、つい1カ月程前に農作業の最中にトラクター
による事故の為、亡くなった元方城町町議のKさんのご尽力で
始まったもので、もう10年を超すお祭りとなって定着して
いる。テントの中のオニギリを売る場所にKさんの写真が飾ら
れていた。挨拶すると、息子さんと娘さんという。写真に皆で
手を合わせ冥福を祈った。事故さえなかったら元気なお顔を
拝見出来たのにと残念でならない。

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皆と別れ、ヨーコさん親子と鷹取山練習登山へ。家人以外は
「登れるかしら」と自信がない。恐る恐る薙野の休憩所を目指
して登山開始である。風は冷たいのであるがすぐに汗ばんで
くる。いつもと変わらぬ時間で休憩所に到着。意外と疲れて
いない。それから途中の岩場で1回休み、上野越え、鷹鳥山頂上
へと順調に登れた。ヨーコさんたちも予想外に元気よく登れたと
喜んでいて、来週の本番に向けて自信が付いたようだ。下山は
例の如く私が先頭で、スズちゃんと2人で大手を振りながら、
ヨーコさんたちに構わず早々に山を降りた。

お腹が空いたのでみんなで小倉の剛士が勤めるお店に焼肉を
食べに行く。腹一杯お肉を食べていざ支払いの段になって
ウエストポーチに入れていたお金がないのだ。よその店で
なくて良かった。剛士に話して払ってもらう事に。「つい何日
か前にオトンとオカンに小遣いやったやろ。新手のオレおれ
詐欺かいナ」と皮肉られた。

帰って布団に入って何処で失くしたか考えるのだが、山頂しか
思い浮かばない。家人を起こし、「明日も鷹取山に登ろう」と
言うと本人は自転車のつもりでいるから返事を渋る。私の方は
雨に備えて月曜を予備日にとって予定を入れていなかったので、
ヤル気マンマンである。渋々承諾させて就寝。朝5時から弁当の
用意をして8時に出発。連チャンの山登りは初である。今日は
下の駐車場に止めて出発。時間が早い分昨日より寒い。昨日と
同じく元気よく山頂へ。思い出しながら昨日の動線を辿って
財布を探す。半ば諦めかけた時に家人が見付けてくれた。
嬉しくてお弁当の美味しいこと。

下山する道すがらキッチリ説教された「あなたは安全や危機
管理などの管理能力に欠ける。落とすな、失くすな、盗られるな、
騙されるな、なまじ金をもつな。」お説ご尤もでございます。
以後、気を付けます。無い金は落とさんもんナ〜。
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2012年10月13日

色々な秋があります(No112)

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前回の諸九尼が重たかった。突然、私の目の前に現れて
半月ほどそれ一色になっていた。これを書き終えてから
文を書く気になれない。このところパソコンは開くものの、
事務的な処理だけでワードには近づかない。思考が停止して
いる状態と言おうか、自分では月に3つは書きたいと考えて
いるので、10日を過ぎてそろそろ何かをと思い、取り敢えず
頭の中に浮かんだ文字を並べていく作業をやっている。

この2〜3日は初期の頃のブログを読み直していた。いつもの
癖でデータ取りをしてみた。“お店の名前の由来(2008/
6/18)が第1回である。ここまで111の話を書いている。
思い返せば、パソコンの技術が稚拙なため、最初の頃は短い
ものが多い。最近のものと比較すると1/3程度であろうか。
写真も載っていない。時には何カ月も空いている時もある。
文章が書けない精神状態であったのだろう。ジャンルも多岐に
亘っている。タイトルを見ながら摘み読みをしてみると、
懐かしさやその時の思いや考え方が見えて、笑えたり、
涙したり、我ながら感心したり、ブログを書いて良かったと
今更ながら思う。

私の夢の一つに、喜寿を迎えられたらその記念に、このブログ
の記事をまとめて自費出版し、これまでお世話になった皆様に
読んで頂きたいと思っているものがある。自分史というほど
大それたものではなくて、その時に体験したことや、目にした
もの、世の中で起こったことなどを綴って回を重ねてきたものだ。
書き始めてこれまで4年と4カ月になる。短いようで長いよう
で、千里の道も一歩からというが、自分としてはよく頑張って
いるじゃ〜ないかと、褒めてやりたい気分でもある。家人も
ロードバイクで世界一周40000Kmを目標に頑張っている。
現在20か月で2万Kmを越えたと言っていた。これは日本から
ブラジルまでの距離だという。千里どころか5千里ほども
走っているのだ。積み重ねとは凄いものだと改めて感心する。

喜寿まであと8年ほどあるからこのペースで書いていくとすると、
300話を越すことになるだろう。しかし、これには心身共に
健康で、という条件付きなのだ。これからはいつまでも薬いらず
医者知らずという訳にもいかないだろう。喜寿まで生きていると
いう保証などないのだから。毎日を忙しく立ち働いている私たち
は、これまでは病気をしなかったから、この先も健康でいられ
ると無意識の内に勘違いしているのかもしれない。と同時に、
ともすれば健康であることに感謝することを忘れている。

ボケるかもしれないし、手足が不自由になるかもしれない。
そうなると忙しくなくなるかわりに、働くことはおろか、
散歩も山登りもゴルフも体操もブログも出来なくなる。
現在の忙中に閑を求めて、物事をこなしていく日々が、
如何に幸せで貴重な時間を過ごしているかを感じずには
いられない。来年は直方ライオンズクラブ初の女性会長と
して今よりももっと忙しくなる。この部分が大きなウエイトを
占めるだろう。かと言って、これまでやってきたことを辞める
つもりはない。回数は減るかもしれないが続けていきたい。
それには健康面は当然のこと、時間の使い方にも工夫が必要と
なろう。

今は暑かった夏が終わり、秋真っ盛りである。食欲・スポーツ・
文化・読書と秋の頭に付く言葉を並べてみた。このところの
自分を振り返ってみると全部やっている。前回の諸九尼は
文化に属するかナ。とにかく文化はいつも重たく書きにくい
ものだ。次回は軽妙にスポーツでも書こうと考えている。
今回からナンバーを書き入れている。遠くまで来たことを
感じるために。
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2012年10月04日

後日談 諸九尼

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前回、石碑の写真を見てから一気に諸九尼のことを書き上げた。
写真が3枚に文章も長くなったので紙面が足りなくなり、書き
たい記事が残ってしまった。それに私の勘違いもあったし、
これはパート2を載せなければ完結しないと考え、追記して
いる次第である。

第一の勘違いは、御影石の石碑が本物だと思っていたのだが、
木を見て森を見ずの例えで、本体は写真にあるように、右後ろ
に高さ2mほどの自然石で出来た石碑なのだ。ここには草書体で
俳句が書かれているため、素人には判読できない(と思う)ので、
御影石の石碑はその説明のために建てられたものであった。

私が思うに、辞世の句よりもこの石碑の句のほうが、諸九尼の
生き方・悩みをよく表していると思う。分別とは、“理性で
物事の善悪・道理を区別してわきまえること”とある。浮風、
諸九尼のどちらかにもう少し分別があったなら、家庭を捨てる
ことはなかったのかもしれない。自分自身に置き換えて、女の
立場を擁護しつつ考えを進めてみると、「連れて逃げて」と
女の方から言ったかもしれないが、最終的な判断はやはり、
男の方だったのではなかろうか。もし、浮風が家庭持ちで
あったなら、その場限りの浮気で済ましたかもしれない。
家庭と己の立場を天秤に掛けても女を取るとしたら、それは
もう男女の業としか言いようがないのではなかろうか。

ただ、救われるのは浮風とは死ぬまで仲睦まじく連れ添って
生きたと思われることである。偕老同穴な生き方といい、
比翼塚という名付けといい、それをよく表しているではないか。
理解しがたいのは、浮風の17回忌を終えて40年近く暮した
京から、田主丸に近くなる直方に何故移り住んだのか。
2年ほどで亡くなっているから、死期を悟って浮風の生まれ
故郷で最期を迎えたかったのだろうか。このあたりは本を
読めば判るかもしれない。生まれ育った田主丸では、家庭を
捨てて駆け落ちした諸九尼の評価は芳しいものではなかった。
最近になって研究や本の出版などされ、地元でも女流俳人
「諸九尼」として見直されて顕彰などもあっているようです。

直方市では毎年、諸九尼の命日である9月10日に俳句大会を
催しているのですが、今年は9月9日に直方文化連盟主催の
直方と田主丸を結ぶ「浮風と諸九尼232回忌」交流記念講演
および追善俳句大会が行われました。このことに関連する記事が
市報のおがた(No767)平成20年9月号“折々の風“
(文 舌間信夫) 「諸九尼遺聞 B 直方と田主丸」という
コラムの最後に書かれていました。それには、「最近、諸九尼忌
の話が持ち上がっている。縁ある直方と田主丸の俳人が交流し、
合同句会を持ってはどうか。もし実現するならば文化的意義は
大きいといえる。諸九尼も草葉の陰で喜ぶに違いない」と、
書かれていて、この実現に向けては郷土史家である舌間先生を
はじめ、両地区の関係者の方々のご尽力があるのですが、
この後、努力が実を結び、生まれ育った地と終焉を迎えた地と
が文化交流を果たすのです。

諸九尼の半生を考えた時、心の奥には懺悔の気持ちが絶えず
あったと思うのです。夕陽が沈む西に向かって手を合わせて
いたのかもしれません。浮風の死後、剃髪し尼になったのも
その表れであり、7回忌を終わらせた後に奥の細道を尋ねた
のも、17回忌という心の区切りをつけて直方に移り住んだのも、
自身のケジメをつけたかったのかもしれません。帰るに帰れ
なかった故郷の、人々に認められたことを諸九尼が知ったと
したら、心の重荷を降ろすことが出来るのではないでしょうか。
諸九尼の残した足跡が、230年という長い時を経て、人々の
心の中の蟠(わだかま)りを溶かし、結びつける役目を果たした
のでしょう。
posted by ochiyo at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記