2012年05月29日

古希を迎えた誕生日

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5月8日は私の69歳の誕生日であった。古来、祝い事は
満ではなく、数えでやる習慣なので今年が古希となる。
ライオンズクラブでも今年の1月の例会でお祝いを頂いた。
還暦の時もそうであったが、自身の自覚がないままに周りが
祝ってくれた。

今年は古希の誕生日(8日)、と母の日(13日)が近いため
家族はそれぞれが私のことを考えてくれたようだ。家人は早々と
iPadをプレゼントしてくれた。本人曰く、「モヤイ(共同)で
使おうネ」と、言うから要するに自分が欲しかっただけでは
ないのか。アナログ人間の私が使いこなせないだろうと、先を
見越してゆく行くは自分の物にと目論んでいるのか。同時に幾つ
ものことをやれないので、取り敢えずカレンダーに行事予定を
入れ込むことから始めてみようと考えている。その後は音楽を
楽しみたいと思っている。パソコンとの違いは手軽に持ち運べて、
しかも外で使用出来るというのが魅力である。どこまで使い
こなせるかは未知数であるが、楽しみが一つ増えた。

それともう一つは子供たち3人がテレビをプレゼントしてくれた。
我が家では去年の地デジ移行の際にテレビを廃止してしまった。
新しく買い替えなくても部品を付ければ古いテレビでも見られた
のであるが、何となくそうなってしまった。それから1年近くに
なるが別に不便を感じていない。見ようと思えばワンセグの
アンテナをパソコンに付けて見られるし、ニュースなどは
インターネットで十分間に合っている。気持ちの中では有っても
いいかナと思っていた矢先に、子供たちが話し合って娘の発案で
プレゼントはテレビにしようとなったそうである。

日曜(13日)の早朝から応接間でガサゴソ何やら音が聞こえて
いた。起きて部屋に入って見ると大きな画面の薄型テレビが
どんと据えてある。「どしたん それ」初期設定をしている
家人の背中に問いかけた。「子供からのお誕生日兼古希の
プレゼントです。昨日宅急便で届きました」。驚くやら嬉しく
なるやら、毎年この時期になると何らかのアクションがあるの
だが、今年は娘からのバースデイカードだけで「今回は何も
なしかナ?」と、思っていた謎がこれで解けた。「みんなそれ
ぞれに生活があるのに申し訳ないね〜」。

早速、夕方に電気店にいって、iPad用の画面に張るフイルムと、
テレビとパソコンを繋ぐHDMIコードを購入。最新型のテレビは
従来の物と違って見るだけではなく、色んな使い方楽しみ方が
出来るようになっている。当然、その方面に疎いから全面的に
お任せである。お金は出し渋るが口は出すタイプの私は、出費は
抑えて最大限の楽しみを要求する。「そんな虫のいい話はあり
ません」。SkypeもYouTubeも出来るし、パソコンのモニターと
してでも使えると言う。「作文書くのにそんなに大きくしなく
ても見えるよ」とピント外れなことを言うと、「パソコンの中の
映画や画像を大画面で見るの」いたく納得。

iPadで音楽を楽しもうと思うと、iTunesに曲を入れてもらい
(当然、無料のものを)、聞くための操作を何度も教えてもらい
ながらようやくなのだ。両方とも私が貰った物だから自分の
所有物であるはずなのに、使い方が定かでないために私の手中
にはない。何とももどかしい限りである。今日はiPadの中にある
ICレコーダーやビデオ、カメラの操作を教えてもらったが、
デジタルに関しては三歩 歩めば端から忘れてしまう私のアナ
ログ頭脳は、判ったつもりが次にページを開くと、もうチンプン
カンプン。また、一からやり直しである。いつになったら一講釈
述べられるようになるのやら。




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2012年05月11日

人生七十(しちじゅう)古来稀(まれ)なり

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Our life but a span(人の一生は短い旅路にすぎない)
という言葉がある。これと古稀について同時に読んだので、
このあたりを書こうという気になった次第である。
70歳まで長生きするものは昔からきわめて稀である。これを
古稀と称する。確かに“国敗れて山河あり”の杜甫の時代は、
今から1200〜1300年も前のことなので、この時代の
平均寿命は現代のものに比べればはるかに低く、70歳まで
生きている人は少なかったに違いない。

一方、“人の一生は短い旅路にすぎない”も、来し方を振り
返れば途方もない距離を随分な時間を掛けて歩んで来ているし、
手を翳(かざ)して行く末を眺めて見ても、限られた時間と
景色は見えない。それでも短い旅路にすぎないと表されるの
である。地球の誕生規模で考えれば、昭和から平成にかけての
一生なんて一瞬の間でしかないだろう。

古稀の意味の由来について考えてみると、自分がその年齢に
達した今、「そうかナ〜、違うんじゃない」と思うのです。
60歳の“還暦”は再び生まれた年の干支に還るからであるし、
77歳の“喜寿“は喜の字の草体が七を三つ書いて七十七と
読まれるからであるし、88歳の米寿は米の字を分解すれば
八十八になるし、90歳の卒寿は卒の通用異字体「卆」が九十と
読まれるし、99歳の白寿は百引く一で白である。これらは字の
読み替えと現象で呼称されているが、これらは全て古来稀なる
年代であろう。ただ、古稀だけは平均寿命が格段に延びた現代に
おいては言葉の意味からするとマッチしないものかもしれない。

もう一方の短い旅を考えてみると、自分の人生、短いと思えば
今日という一日を大切に生きるであろう。昨日は、過ぎて
しまって存在しないし、明日もまだ来ていないので存在しない。
今日というこの一瞬が生きている証なのだ。今日が終わり夜が
明けると明日が今日に代わっている。禅問答のようだが、人生
とはこのように右・左・右・左と歩を進め、いつの間にか
遠い所まで重い荷物を背負って歩んで来たことをいうのであろう。
過ぎ去った日々を振り返ると、確かに短いものかもしれない。
しかし、その人生は決して苦しいことのみではないはずだ。
不足を常と肝に銘じ、何の変哲もない小さなことに喜びを見出す。

「秋の入日と年寄りは段々落ち目が早くなる」と言われるように、
最近は一日が、季節が、一年の経過が、早く感じられるように
なったのは確かである。まだまだと思いながら生きている私でも、
先のことを考えると時間が足りないことを自覚する。日頃は
人との出会いを“一期一会”の精神で大事にし、“人間万事
塞翁が馬”とばかりに一喜一憂せず、淡々と生きることを
心掛けている。

最近読んだ記事の中で、忙しいという文字は心偏に亡くすと
書き、あまり忙しくしていると人の心を失くしていってしまう、
といったことが書かれていた。私などは、忙しさにかまけて
何々を・・・といったことをよく文の中で使っていたので
これを読んだときに、心に隙間を作らないとそうなっていくかナ
と思ったものだ。それで忙しいの反対は何だと考えたら、
ユックリ、ノンビリ、イコール悠長(ゆったりと構えて気の
長いこと)を電子辞書で見つけた。そこに同音異義語があって、
悠長に構えた遊鳥(遊んでいる鳥)が優長(物事に優れている
こと)を目指して生きる。なんて言葉遊びをしてみた。

人生を長く生きるためには、私もそろそろ忙中に閑を求めるの
でなく、その反対の閑中に忙といった、心にゆとりを持って
ストレスを溜め込まないような生き方を考える時期がソロソロ
きたのかナと考える。現実には後、何年かは無理かもしれないが、
人生七十古来稀なりに到達し、Our life but a spanを我が人生
そうでもなかったと笑って言えるようなこれからでありたい。


posted by ochiyo at 15:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記